春よ 遠き春よ

「・・・・・・・・・寒い。」
季節はすっかり冬になった。
息が白くなる朝。今日。初霜が降りた。今年は遅いほうだった。
サク・・・草が音を鳴らす。踏みしめてみた。なんだか嬉しい。こんな風に霜が音を鳴らすのをみることは滅多とないから。
「おはようございます。」
芳河の声がして振り向いた。自分に言ってるんじゃない。すれ違った男に挨拶したのだ。
音華はその男を見た。男はちらりと音華を見た。音華は無言で頭をさげて一礼した。男も小さく頭をかしげる程度に一礼した。
「何してる。」
「別に。霜が降りてたから。」
芳河が庭に出てきて音華の横に並んで霜の降りた草を見る。
「今日は冷えるからな。」
息が白い。
「俺、冬、昼間は嫌いだけど朝は好きだな。」
「なんだそれは。」
「空気がきれいだ。それに残ってる月が高い。」
「・・・実はそういうことに感心があるんだな。」
「なんだ、お前、俺のことなんだと思ってますか。」
芳河は無視して歩きだす。
「・・・・。芳河。」
「なんだ。」
振り向く。
「勘違いかも知れねぇんだけど。」
「あぁ。」
「お前・・・影がすこし薄くなってるぞ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
芳河は黙って音華を見た。沈黙。
「・・・と、俺には見えるんだけど・・・。」
「気にするな。」
芳河はそれだけ言ってまた歩きだした。
気になる。人間の影の色に差があるなんて知らない。影が薄いなんて言葉は確かにあるけれども。

「俺、今日夢見たぞ。」
朝食の時、音華が言った。
「どんなー?」
エリカが御飯をつまみあげながら尋ねる。
「なんか、バスに乗って、どっかに食べに行く夢。」
「食い物しか頭にないのか。」
芳河が呟く。
「黙ってください。」
毛を逆立てる。
「でも・・・、なんか、誰かと一緒だったんだけど・・・それが思い出せないんだよな。」
「あー、あるある。見た夢がなんでか思い出せないこと。気持ち悪いよねっ!」
「うーん。・・・気持ちわりぃ。園長先生かなぁ・・・?一人じゃなかったんだよな。」
頭を振り回したくなる気持ち悪さだ。
「・・・それは、この間のようになにかに関係してそうなのか?」
芳河が訊く。
「んー・・・まだわかんねぇ。でも、それはない気がする。なんせ食べ物だし。でも、夢って大事なんだろ?」
音華は沢庵をかじる。
「だって、なんだっけ。そう、聞こうと思ってたんだ。夢読み。夢読みってなんだ?」
蔓だ。陰陽師ではないが、あの館にいる彼女は自分は夢読みだと言っていた。
「・・・夢読みって・・・もしかして、蔓ちゃんのこと?」
エリカが訊く。
「あ、おう。玉蔓がそう言ってた。」
この二人喋ったんだ、そういうこと。エリカは意外でへぇ、と呟いた。
「夢読みは特殊な能力者のことだ。」
「だからどんなだよ。」
「予知無を見る。それはお前のように偶然などではなく、自分の力で夢を読む。」
「・・・へぇー・・・。」
「他にも、例えば、今言った音華ちゃんの夢にどんな意味があるかとか、そういうのも読めちゃうんだよ。」
エリカが付けたす。
「・・・そういう能力者って、たくさんいるのか?」
「特化している人間は少ない。陰陽師にも多少出来る人間はいる。そういう陰陽師は占卜が得意なんだろう。」
「占卜・・・。あぁ、星読みとかと同じ感じなんだ?」
音華は味噌汁を飲み切って言った。
「星読み・・・まだ教えてないだろう。」
「本読んだ。」
朝食。完食した。
「・・・そうだ。占卜も陰陽師の大事な役目だ。」
「ふーん・・・お前もできんの?」
手を合わせる。
「あぁ。あまりしないがな。」
「ま、あんまりお前に先を読まれたくないけどな。」
「あははっ。」
エリカは笑う。
「ふーん。でも、玉蔓はそういうのが得意なんだな。家がそういう感じなのか?」
「あぁ。坂音は占卜中心の陰陽家だ。」
「そ。」
音華は立ち上がった。そして部屋を出ていく。
「また後でね、音華ちゃん。」
「おう。またな。」
音華はどすどすと可愛げない足音で遠ざかった。
「夢読みかぁ。」
エリカが息をついて言った。
「私は下手なんだよねー。占卜。」
「普通だろう。」
「うーん。でも小さい時できなくて悔しかった想い出が・・・。」
「言葉が分からなかっただけだ。」
エリカは微笑む。
「芳ちゃんは、絶対必要になるもんね。これから。」
「・・・あぁ。」
「どっちかっていうと、調伏のほうが合ってる気がするけど。」
「俺もそう思う。」
お茶を飲む。
「それにしても、優秀ですね。音華ちゃんはっ。」
「?」
「芳ちゃんに言われる前に、本も読んじゃってるし。師匠としては満足?」
「・・・そうだな。・・・俺の影にも気がついた。」
エリカが微笑むのを止める。
「・・・無理しすぎだよ。」
「あぁ。」
「大丈夫だよ。最近は、そんなに式神の気配はないよ。今の結界よりも弱いものでも大丈夫だよ。」
「そうかもしれない。」
芳河は立ち上がった。
「夜、寝る時ぐらいは、音華ちゃんの身体に掛けるほうじゃなくて部屋の周りに張るだけにしたら?あれだったら私が張るよ。」
「いや、俺が張る。自分で言ったことだ。」
エリカは息をつく。
「今だけ出血大サービス。芳ちゃんの調伏、いくらか請け負ってあげるよ。」
「あぁ。礼をいう。」

「よ。」
音華はそういって、足を引っ掛け登りきった。母親の墓前だ。ぱんぱんと埃を叩く。
「やっぱ。この前挿した花枯れてる。」
そう言って、持ってきた花を挿す。部屋にあったのを拝借してきただけだけど。
ふーっと息を吐くと白い帯が空中に流れる。日がすっかり昇っているが、気温は低い。
まぁ、此処、山ん中だしな。
「なぁ、母さん。」
座りこむ。
「母さんは俺が陰陽師になるの、喜んでるのか?」
独り言になる問いかけ。
「だったらいいけど・・・。このままじゃ鬼芳河に完全に陰陽師に仕立て上げられちまうからな・・・。」
カチっ、ライターで火をつける。いつものマルボロ。
「俺の父親って・・・・誰なんだろうな・・・。誰も教えてくれないんだ。」
あ、もしかして。思い出した。お盆の時、墓前にいた男。幽霊の男。あいつではないだろうか?
そうだ。絶対そうだ。妙に深い確信が心のうちに芽生えた。音華は立ち上がった。
「じゃあ、死んじまったんだな・・・やっぱ。」
くるっと振りかえった。時、煙草を落としかけた。
「芳河・・・。」
芳河がそこにいた。
「もしくはまた吸魂鬼か?」
構える。
「違う。」
はっと、ため息をついて芳河が言った。
「何してる。」
「何してたっていいだろ。ちょっと・・・来てみただけだよ。」
恥ずかしくなった。もしかして独り言、全部聞かれてたんだろうか。
「お前こそ何しに来たんだよ。」
「霜が降りたからな。お前と同じで花を挿し替えようと思ってた。」
「あ・・・っそ!」
音華は芳河の横を通り過ぎて降りようとした。
「知りたいのか。」
芳河が呟く。
音華は振り返る。
「何をだよ。」
「・・・いや。」
舌打ちした。また、こうやって、うやむやにされる。頷いておけば良かった。音華はひょいっと降りてしまった。
一人残された芳河はため息をついた。
「・・・・・・・・・話さないといけないのか・・・。」


「今日から占卜をやる。」
講義。開始。
「へーい。」
「本、読んだんだろ。」
「一度だけな。五行よりも楽に読めた。」
「そうか。ならこの星の並びは、何を意味するか言って見ろ。」
「って速攻ですか!」
鬼!
「読んだんだろう。」
「目を通したレベルで暗記してるわけねぇだろ!」
はぁ、ため息。しばく!

―――間
「わかった。おまえには才能がない。」
沈没。
長時間にわたる鬼講義の末の一言だった。
「っせーんだよ!!!解かるかこんな微妙なもん!自分の運命は自分で見極めやがれ!」
切れる。
「学問的に視てもお前の頭はこの方面に向いてないらしい。」
「っせぇよ!確かに理科の天体は苦手でしたけどなにか!星占いは信じませんけどなにか!」
どかっと胡坐をかく。正座に限界が来ていたのだ。
「・・・お前が平安時代なんかに生まれなくて良かった・・・。」
「あぁ?」
「陰陽寮に勤めていれば確実に占卜はマスターしていなくてはならなかった。」
「・・・あぁ。陰陽寮か・・・。お前が継ぐやつだろ。」
「聞いたのか。」
「おう。そっか。っていうかお前。もうその役目継いだんだろ?いつも占いしてなきゃいけねぇんじゃねぇの?こんなところで講義なんかしてないでさ。」
「いや。」
「あっそ。」
舌打ち。
「まあ、最低でも星くらい読めるようにしておけ。」
「・・・へーい。」
講義、一応終了。
「じゃあ、夕餉でな。」
「・・・若草殿も。」
音華が出ていこうとした足を止める。
「・・・若草殿も、占卜はあまり得意ではなかったらしい。」
「・・・・へぇ・・・。」
「まぁあの方は、占おうとしなくても自然に予知夢や予言を見聞きしていたけどな。」
「へー・・・。」
なんだか想像がついた。


「あーそう言えばShimaって死んだんだよなぁ・・・・今年の夏―・・・忘れてたぁ。」
峰寿が新聞を片手に独り言を言いながら廊下を歩いていた。
「ま、別に好きなタイプでもなかったけど・・・。お、芳河っ。」
芳河が前を歩いているのに気がつき、駆け寄った。
「芳・・・っ。」
「峰寿か。」
振り向いた芳河の顔を見て、峰寿は驚いたようだった。
「・・・お前、どうしたの?」
「気にするな。」
峰寿が真剣な顔をした。
「気になるに決まってるだろ。なんだその影の薄さ。」
「ちょっと疲れてるだけだ。」
「・・・あのなぁ・・・っ。」
「言うなよ。」
芳河が少し睨むように峰寿を見た。
「姫様には、言うなよ。」
「・・・お前・・・。」
峰寿も眉間にしわを寄せた。
「なめてんのか?言うわけねぇだろ・・・ッ!」
「礼をいう。」
「音華ちゃんの・・・結界か?」
峰寿の問いには答えない。
「芳河、もう少し弱いのでいいんだぞ。お前、もたねぇぞそんなんじゃ。」
「お前が言ったんだろう。」
「あ?」
「お前があいつを大事にしろと言ったんだろ。」
峰寿は息を吸い込んだ。だけど怒鳴らなかった。
「・・・お前なぁ・・・・・・。」
むしろ、呆れたような声を出した。
「お前・・・ひねくれもの・・・っ!」

「霊鏡堂って、占いに使うんだよな?」
夕餉の途中で音華が聞く。
「エリカ、そう言ってたよな?」
「え?あ、うん。あのほら穴のこと?今は使われてないけど。」
「・・・霊鏡堂か・・・。」
芳河が、思い出したように言った。あんまりいい予感がしなかった。
「音華。」
「・・・なんだよ。」
「お前、あそこに篭れ。」
「あ゛?」
箸がバラけた。

広辞苑の鬼っていう欄にI芳河ってつけくわえたい。


「寒ぃ!」
「火をつけてやるだろう。」
そういって篝火を付ける。声が響く。気味が悪い。
「なんで・・・っなんで夜にするんだよ!」
「夜の方がうまくいくからだ。」
「ざけんな!」
こだました。奥へと進む。なかなか深い洞窟で、湿っぽかった。
「出る・・・!此処はなんか出る!」
ぶつぶつ。
「此処だ。」
立ち止まった。なるほど、確かに銅製の大きな鏡がおいてある。映画でありそうな場所だ。
「で、此処で何をするって?」
芳河は火を付けてから音華を見た。
「鏡の中に写るものを見ろ。」
「やっぱりなんか出るんだろーが!!!」
切。
「実体は無い。この鏡は虚という場所を写す。」
「こ?」
「そこに住む蠱の動きを見る。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・こ?」
「虫だ。」
「虫!?」
気持ちが悪いです、拒否。は受け付けられる見込がないのでしない。
「あぁ、注意しろよ。虚には時々人を惑わすものが通る。それに惑わされるな。」
「あの・・・・星読みよりも随分レベル高い事をさせられそうになっている気がするんですが。」
「星はお前だけじゃなく、誰でも見る事が出来る。だがこれは霊力の高い者にしか見る事が出来ない。」
だからレベル上がってんだろ!とは言わない。
「だが、見る事が出来たらそれは星読みよりも単純に占える。」
「・・・・つまり?」
「やればわかる。」
説明不足。
「で?俺は何を占えばいいんですか?源氏の恋愛運か?明日息子に妻を寝取られるでしょう。」
「下品な事ばかり言ってないで集中しろ。それに匂宮は紫の上には手を出していない。」
「あっそ。で?」
「お前の好きなことを占えばいい。というか、蠱はお前が何を知るべきかを知っている。」
ちんぷんかんぷんだ。足が冷えてきた。
「いつまでやればいい?」
「見えるまで。」
「寝るなと。」
「寝れるなら寝ればいい。」
舌打ちした。
「はいはい。鬼師匠!わかりました!十分です。頑張りマース。なんで、さっさと去れ!」
「・・・気を付けろよ。くれぐれも。」
「へいへい。」
芳河は背中をむけて細い洞窟を一人引き返した。その背中が見えなくなった。
「寝てやる!」
その瞬間の決心。

「さむっ・・・!」
冷たい空気でうまいこと眠れない。くそう。
だけど誰がこんな夜中に占いなんかやるか!横になったまま丸まっていた。何月だと思ってるんだ。師走だぞ。
確かに思ったよりは寒くないし、地面に敷いてあった謎の毛皮に寝転べばなんとかなる。近くに焔は4つ、5つ在る。
目をつむっていた。音が聞こえる。変な空洞を通り抜けるようなそんな風の音だ。何かの泣き声にも似ている。
眠れない。三時は過ぎてるかな。いや、まだか。
時計がないのに、どこかで時計の針の音がする気がする。
耳をそばだてる。光の塊が通り過ぎるような音がする。目を開ける。
「・・・・・・なんだ?」
体は起こさない。何処から聞こえたんだろう今の変な音。自然の織り成す音ではない。変な感じだ。
ちらりと大鏡を見る。そこからだ。確信した。というか、絶対そうだ。分かっていた。
そこには何も映ってない。錆びた銅が近くの焔でうっすら赤味を帯びているように見えるだけだ。
だけどまた。またあの音がした。なにかが通り過ぎるように遠くから近くへやって着てそしてまた遠ざかる。
綺麗な、でもこの世の物ではない音。息を飲んだ。
あ!声をもらしそうになる。今、鏡の中に何かが見えた。
うっすらと青い光を帯びた、シーラカンスのような何かが見えた。
汗が出る。これが蠱だ!確信する。
光の粒がその蠱の後ろにぽろぽろとこぼれるようについていく。だけどそれは一瞬の光ですぐに消えてしまう。
綺麗だ。そう思った。
音華は立ち上がった。それに惹かれるように。ゆっくりと立ち上がった。そしておそるおそる大鏡に近寄った。
「わ・・・。」
その大鏡の奥に映る、無数の蠱。鏡からすこし漏れる彼らの残光。
それらは小さい点のように見える。さっきみたいに近くにやってくることはなさそうだった。
彼らは流れるように虚を泳ぎ、そして流れる。彼らの波が、光の筋を作りながら揺らめく。
鏡に、無意識に触れていた。
「!」
驚いた。感触は完全に水だった。
そして、音華が鏡に手を触れた瞬間。光の波がざわっと動いた。どんどん形を変えていく。
音華はそれをひたすら目で追った。なんだ?
光の粒がどんどん小さくなってく。虚の奥のほうへ沈んでいく。だけど量は増えていく。
「・・・・?」
分からない。何が始まったんだ。その青い光は、不意に色を変えた。紫へ。
「あ。」
どきっとした。その粒達が、何かを描いているのが分かった。男だ。
「・・・・・・父さん・・・・・・。」
音華はもう一度鏡に触れて、覗きこんだ。鏡に鼻先がつきそうなくらいだった。
だけどその時だ。
別の音がした。虚を泳ぐ、べつの何かの音。
目に赤が映った。
「う・・・っわあああああああああああ!」
叫んでしまった。
鏡から突如、赤い人の頭ほどの大きさの何かがずるりと出てきたのだ。
危うく顔面に当たるところを間一髪で音華は避けた。
それはこの洞窟の現実の穴に現われたのだ。
容はなにかの昆虫のさなぎのようだった。足が6本ある。それはきっちりと身体にそろってついていた。
赤くぼんやりと光ながらそれは浮遊した。身体に墨で描かれたような、なにかの札に絵がかれたような紋様があった。
そいつはゆったりと宙を漂いながらくるりと音華の上を一度浮遊した。
音華はかがんでそいつを目で追った。
なんだこれ?これも蠱?違う。確信。
これは、なにか、人の手のものを感じる。はっきりいって・・・術を感じる。
そいつは何かを探すように大きな目を、といっても見えているのか謎であるが、大きな目をあちこちに向けているように飛んだ。
音華はできるだけ息を止めた。自分の手で口を抑えようとした時だった。
びくっとする。
自分の手が、白く光ってる。手だけじゃない。体中が。光っている。
ばっと蛹をみる。そいつはゆっくりと移動を始めていた。屋敷のほうへ行く!外へ出る気だ!
なんなんだこいつ?答えはみつからない。
芳河ならそれがなにかすぐに分かるはずだ。自分は何も知らない。そう感じた。
どうすればいい?どうする?心の葛藤のようなもので頭が溢れそうになる。
ジャリ!
「!」
音をたててしまった。
かがんで膝をついていた。その膝に食い込んでいた小さな石が痛くて、耐え切れずに足をすって体勢を変えた。
そいつは、その音に気付いたかのように、こちらにゆっくりと旋回してきた。まずい!
ぐっと拳を握った。

「・・・・・・・・・・。」
芳河が顔を上げた。そして闇に解ける沈黙をにらむ。
「・・・なんだ?」
空気がざわめいている。

バシィ!
死呪を放った。その光は黄色く光り、赤いさなぎにぶつかった。だがその塊はびくともせずにゆっくりと音華のほうへ向かってきた。
「なんだこいつ!」
後ずさり。そいつはまっすぐと音華のほうへやって来る。一定速度で、それはもうゆっくりと。
「・・・・・・っ。」
まだ鏡はうっすらと紫の光を放っている。それを背に、音華は構えた。
「オン・・っ!」
指を組む。
「・・・オン・・・!阿毘羅吽欠・・・!蘇婆訶!」
指に焔が灯る。紫の焔だ。空気に何かが走る。
汗が吹き出す。基礎の基礎の真言だ。
「こいよくそったれ・・・!」
赤い蛹はゆっくりと音華に近づきながら、パキパキと変な音をたて、6つの足を開き出した。
音華は思いっきり振りかぶる。そして焔を振り下ろした。
「オン!」
ぼぉ!激しい音がして指に灯っていた焔が膨れ上がった。同時に赤い蛹を包みこむ。
叫び声が聞こえた気がする。加えて左手で指を構える。焔を放つ右の手首に手刀を添える。
「ビ・・・シュカ!サン!ソワカ!」
更に焔に勢いが加わる。いける!このままこの化け物を消す事ができる!そう思った時だった。
鏡が光った。
「!」
後ろから光を受けて、音華はとっさに振り向いた。振り向いた瞬間に血の気が引いた。
「母さ・・・っ・・・・・!」
あの母親の姿がずるりと鏡から出てきたのだ。そしてあの微笑みのままで手をゆっくりと伸ばし、音華に後ろから絡みついた。
その手はジワジワと体を締め付ける。右の掌で柔らかく目を覆う。
「・・・母さん!」
叫んだ。ダメだ。このままじゃ、あの赤い蛹を消すことは出来ない。
「放してくれ母さん!」
彼女は何も言わない。これは、この女は自分の母親ではない。死んだんだ。
言い聞かせているのに、術を使おうとはどうしてもおもえなかった。無理矢理振り払うのも何故かはばかられる。
顔をふってなんとか目を覆っていた手を振り払った。
だけどその時には、思った通り遅かった。
「うゎ!」
目の前にあの蛹がいた。
そして音華の額に気持ちの悪いその腕で触れた。
瞬間。
ずっと自分の体を覆っていた白い淡い光がものすごい勢いで光った。
目をふさぐ。ダメだ。頭がものすごくくらくらした。
エネルギー切れだと悟った。陰陽術を使った直後に襲ってくるあの疲労感だ。
「・・・・・・・・・・・くそったれ・・・・!」
膝をついてしまった。
「オン!」
鈍い音がして、母親は人間ではない声で叫びながら消えた。
「!」
かすれる視界でそれを見る。それは大きなくらげのような半透明な何かだった。
しゅるりと鏡の中へ戻っていく。それが鏡に吸い込まれるのと同時に、鏡にぼうっと映る黒い紋様。・・・結界だ。
声の主は分かってた。ゆっくりとその声のほうを見る。
「・・・・・・・・・・芳河・・・・・。」
汗が滴った。
「いい度胸だな、こうも堂々と神鏡を使って式神を送り込んでくるとは・・・。」
式神?
赤い蛹はゆるりと芳河のほうへ旋回していった。
「オン!」
クナイがその頭に刺さり、また醜い声が洞窟に響いた。
「サイジョウガシンナンショウガカン・・・・ショクサイデンバ・・・!!!!」
芳河の声が響く。
「・・・・お戻りください。」
ぼん!
何かが弾ける音がして、また暗い沈黙が戻ってきた。音華は目を閉じた。
「・・・・・・・おい。大丈夫か。」
芳河が駆け寄って音華を起こす。音華はうっすらと目を開けて頷いた。そして体を起こそうとする。
「無理するな。持ち上げるぞ。」
「・・・・やめろ・・・!」
「じゃあ此処で一晩過ごすか?」
くそう。
「あれ・・・・なんだったんだ・・・・・?式神なのか?」
声を振り絞って聴いてみた。芳河は音華を持ち上げた。あぁ、この屈辱。二度と経験したくなかったのに!
「・・・芳河。」
どんどん意識が遠のいていく。体が随分冷えていたということに、芳河の体温で気付く。
「全部説明してくれよ・・・・・・・・。俺・・・・何もわかんねぇんだ・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・あぁ。」
芳河が答えた時には、音華はもう眠りに落ちていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・はぁ。」
ため息が、洞窟に響いた。


On*** 35 終わり





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