一人の朝食。朝の瀧行はサボった。

「集中して。」
「はい。」
水桶に向かって精神を統一していた。だけど、芭丈に言わせると乱れまくっているらしい。
水オケに浮いている小さな紙の人形は時間を経て、どんどん水へ溶けていった。
息をつく。

そんなさえない状態で、早いことに4日がすぎた。此処に来て、明日でもう一週間だった。
辛気臭い空気を放ったまま、音華は一人で夕食に向かっていた。
そういえば、一人で夕食って、全然慣れないかもしれない。だってずっと、常に誰かがいた。
施設でだって、あの山でだって。
ため息をついた。不味いんだよ。此処の料理は、よりいっそう。
「若草様の娘で、芳河様の弟子なのに、随分らしいですわね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
驚くような元気もなかったが、声がして振り向いた。そこにいたのはあの少女。
あ、本性が表れたな。なんとなく分かってた。
「玉蔓。」
「蔓ですわ!」
あ、怒った。すねはしないんだ。中学生にはめっきりもてないからな。音華はふっとため息交じりに笑った。
「なに笑ってるんですか。」
「いや。」
綺麗な赤い着物を着ている。いかにもお嬢様だ。
「蔓、お前、峰寿の婚約者なんだってな。」
「それがなんですの。」
「いや。そういう、婚約者とかいうの。初めて見たからさ。」
珍しい。一言に尽きる。そして、納得が出来ないから。
「別に、普通のことですわ。」
ごくん。塩辛い。なんだこの味噌汁は。不味い。
「普通?」
「霊血を保つためですもの。」
「・・・霊血?」
「そんなことも知らないんですの。」
うるさいな。
「私たちの家がずっと継いできている霊力を持った血の筋ですわ。」
「・・・・・・・・・・・へぇ・・。」
「その霊血を絶やさないのも、私たちの使命ですもの。生まれた時に契る相手が決まっているのは普通のことですわ。」
「・・・俺には普通なことじゃなかったんだよ。悪かったな。」
お茶で飲み込む。おかず。
「で。峰寿のその霊血と、玉蔓の霊血は、ブランド同士。サラブレッドを生むために結ばれるって訳か。」
「馬みたいに言うのはよしてくれません?」
「・・・変わんないだろ。」
暴言だと分かってた。だけど言ってしまった。13歳の少女相手に。侮辱してしまった。
スパン!
殴られた。結構手の早いお嬢様だな。ふっと笑った。痛い。そっか、13ってもうこんなに力が強いんだ。
「貴女に何が分かるんですか?!此処で育たなかった人間が・・・此処のなにを知っているっていうの!」
「・・・・・・・・・謝るよ。」
だけど。
「だけど、お前には分かるのかよ。生まれた時には捨てられる事が決まってた子どもの気持ち。」
大人げない。よせ。心の中で誰かが叫んでる。
「・・・・・・・・・・っ知りませんわ!」
「同じだろ。じゃあ、お互いに知らないんだ。」
彼女は言葉を失ってた。
あぁ、大人げない。
彼女は芳河の事が好きなんだ。でも抗えない、抗う取っ掛かりすら見つけられない波に巻き込まれて苦しいんだ。
分かってるのに。そこまで分かってるのに、黙って八つ当たりされる気になれなかった。
「でもそっか。峰寿、婚約者いたんだな。こんな『可愛い』。」
「・・・・・・・・・いますわよ。此処の由緒ある家の者は大抵。」
「・・・・・・ふーん。」
白い御飯だけは完食できた。だけどあとのおかずは少しずつ、残してしまった。
「そんな風には見えなかったんだけどな。」
女の子にもてたい。とか、言ってたしな。
「・・・・・・・・・・・・・・普通のことだからですわ。」
「・・・普通普通って。簡単に言うけどさ。」
じっと彼女を見た。可愛い顔してるな。13歳。
「普通って、何か分かって言ってるのか?」
「・・・・・・・・・・っ。分かってますわ!莫迦にしないで下さい!」
「おう。そりゃ悪かった。」
ふっと音華は笑った。
「なぁ、玉蔓。」
「蔓ですわ!」
「暇なんだったら。また、嫌味言いにきてくれよ。」
「・・・・・・・・・・・・・そんなに暇じゃありません!」
ばっと鬘は背中をむけて去ってしまった。
「・・・・・・・・今の、ちょっとマゾっぽかったかな。」

「音華さん。」
音華は顔を上げた。また人形が解けた。
「集中・・・苦手ですか?」
「・・・・・・・・・・ちょっと。」
「うーん。」
彼はうなった。周りの者がかすかに笑ったのが聞こえた。
「音華さん、じゃあ、こうしましょう。」
「え?」
「この水桶、水瓶に変えましょう。」
「・・・・・・・・・・?」
それが何を意味するのかは分からない。
「それで、この紙の人形。全部渡します。」
「・・・・・・・・え?」
「この課題が終わるまで、部屋から一歩も出ることなく、集中してください。」
「・・・・・・・・・・・・・・・。厠も?」
「あははっ、そこまでは言いませんよ。それにそこには厠が隣接してます。」
「・・・そこ・・・?俺の部屋じゃないんですか?」
自分の理解が遅いのか、そっちの言葉が足りないのか。
「篭りです。」
指差した。大きな蔵のような建物。
「・・・・・・・・・・・。」
閉じ籠れ、と。
「この紙。」
彼は紙を取り上げて言った。
「この紙を、できるだけ溶かさずに、赤く染めてください。」
「・・・・赤く・・・・?染まるのか・・・・?」
「染まります。言いませんでしたっけ?」
聞いてません。
「この水瓶は術を持って練られた粘土の瓶です。霊力のある人間が触れながら念を送ると自動的に術が水をつたって発動します。」
「・・・・・。自動で。術の詠唱なしで・・・?」
頷く。
「そうやって作られるのが身代わり人形です。」
「・・・・・・・・・・・・知らなかった・・・・。」
彼は笑った。
「頑張って。出来る限り、染め上げてください。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・はい。」
「あ、もちろん食事も運ばれますから。」
「・・・・・あ・・・・・・・・はい。」
そりゃよかった。くそ不味いけども。

「芳ちゃん。」
どこかに調伏に行っていたエリカが帰ってくるなり、芳河を尋ねた。その顔はどこか怒っているようだった。
「エリカか。」
「芳ちゃん、どういうこと。」
芳河はエリカを見上げた。エリカは睨んでた。明らかに。芳河はふっと目をそらし、筆を墨に浸した。
エリカは黙っていた。そこからは一歩も動かない。待っているように見えた。
「・・・・・・・指示が出た。」
芳河は呟いて、札の上に字を書いた。さらさらと。
「それで。それで、音華ちゃん、東に置いて帰ってきたの。」
「あぁ。」
「峰寿は。」
「あいつは今出雲だ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
エリカは芳河から目をそむけて下を向いた。
そして、身体の向きを変えて乱暴な足取りで部屋を出ていった。障子は開けっ放しにした。
芳河は深いため息をついた。

蔵に独りぼっち。薄暗くて、黴臭い。音華は目を閉じた。
夜が来る。窓からこぼれるかすかな光が闇に飲み込まれていく。奪われていく。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
集中なんか、出来なかった。音華は床に突っ伏した。埃っぽかった。
奪われていく。床に体温を。土の匂いがする。
「御飯ですわよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。玉蔓。」
「蔓ですわ!」
ガコン。開いたのは小さな窓だった。こんな所から食事が出されるんだ。まるでとらわれの囚人のようだ。
「なんでお嬢様が俺の食事なんか運ばされてるんだよ。」
「運んであげてるのに、ぶつくさ言わないでくださいます?」
音華は受け取って、笑った。
「ありがとう。」
「・・・・・・・・・。此処に閉じこもるんですのね。」
「あぁ。なんだ。曰くつきなのか?なんか出るのか?」
「出やしませんわ。この屋敷では。陰陽師をなめてるんですの?」
あの京都の山奥では出るんだよ残念ながら。
「蔓も陰陽師なのか?」
「・・・私は違いますわ。」
「ふーん。でも、此処に居るんだ。」
「ここに居るのが陰陽師だけだとお思い?」
バカにしたように笑った。
「じゃあなんなんだよ。」
「夢読みですわ。」
「あ?」
なんだそれ。
「あなた、何もご存知ないのね?」
うるさいな。
「いいですわ。あなたになんか説明する気にもなりませんから。気になさらないで。」
「おう。」
どうでもいいしな。
「で。此処なんかあるのか?」
「え?」
「この蔵だよ。なんか言いかけただろ。」
「・・・・・・・・・なんでもありませんわ。」
彼女は首を振った。
「せいぜい頑張って出ていらっしゃって。」
「おう。どうも。ありがとさん。玉蔓。」
彼女はふんと言って、その場を去った。窓は閉められた。また闇が戻ってくる。音華は箸をとって御飯をつまんだ。
「・・・・・・・・・・・あいかわらず、まずいな。この米。」


「芳河ぁ!」
今度は峰寿が帰るなり芳河の部屋に飛び込んだ。
「ちょ、どういうこと!?音華ちゃんがいないって!」
その後ろからエリカがやってくる。
「エリカに聞かなかったのか。」
「聞いた!だから此処に来たんだろ!何で!?修行か!?なんでお前の手元から離れるんだよ!」
「指示が出たからだ。」
芳河は呟くように言った。
「違うだろ!音華ちゃんの口寄せ体質がなんとかなるまではお前が責任もって守るって役目だっただろ。」
「しらん。」
「だからって、言われた通りに一人東にほってきたってわけ?」
芳河は立ち上がった。
「騒ぐな。うるさい。」
「俺がうるさいのは分かってるよ!」
障子を閉めた。
「静かに話せ。」
その言葉で、峰寿は黙る。エリカは芳河を見つめる。睨むように。
「・・・式神がいる。」
芳河が呟いて、小さな紙を口元に持っていき、ふっと吹いた。その紙は粉々に破れて飛び散った。結界を張ったのだ。
「・・・・・・・音華ちゃんを、隠したのね。」
エリカは低い声でそう言った。
「・・・・・・西の連中か。」
芳河は頷いた。
「あの一件以来、式神がちょくちょく紛れ込んでくる。音華を探してると見て間違いないだろう。」
二人は黙った。
「・・・でも・・・だからって・・・ひどいよ。」
エリカはうつむいた。
「東に一人で置かれるなんて。」
「音華はそんなやわじゃないだろう。」
エリカはばっと顔を上げた。
「やわじゃないよ!分かってるよちゃんと・・・っ。だけど・・・。」
「芭丈先生も居る。安心しろ。」
「芭丈・・・先生・・・戻ってたんだ?」
峰寿が目を丸くした。
「・・・・・でも・・・私・・・・あそこは嫌い。」
エリカは眉間にしわを寄せたまま。
「あそこは、由緒或る家の人間ばっかりが住んでるもの。」
呟いた。
「・・・エリカ。」
峰寿がエリカの肩に手をやった。
「そうだ。蔓にあったぞ峰寿。」
「えぇ!?」
峰寿が顔を上げた。
「なんか言ってたの?俺のこと。」
「いや何も。」
「蔓ちゃん、あ。そっか、坂音の人間もあそこに住んでたね。」
エリカが頷いていった。
「元気だった?」
「あぁ。」
「峰寿、いつから会ってないんだっけ?」
エリカが峰寿を見上げる。
「え・・・えー?・・・・・・・・さぁ・・・正月ぶりくらいじゃないかなぁ?年に一回か二回しか会わないからな大抵。おっきくなってた?」
「いや。身体は小さいままだ。」
峰寿が苦笑いをした。エリカも峰寿を見て複雑に笑う。二人はちゃんと蔓が芳河を好きなことは知っている。
「・・・・・・紫の上。無事かなぁ?」
彼女がいい性格なことも。


暗闇が、朝になっても居なくならなかった。
「・・・・・・・・・・・・・今何時だ?」
時計もない。小さな蝋燭に火をともした。まだ小さな窓に光はない。音華は息をついた。
全然眠くない。やってみようとおもった。集中はできそうにないが、水瓶に向かった。
水瓶に触れた瞬間に体に鳥肌がたった。この瓶。そうとうな術が掛かっている。
人型の紙を一枚ちぎりとり、水に浮かべた。そして音華は目を閉じる。
心が乱れてる。それが何故か客観的に、手に取るよう似わかった。水が不細工に揺れている。

なんで俺 此処にいるんだろう。

人形は水に溶け去った。音華はそれが暗闇の中ではっきりと分かった。この暗闇の中はなんでもはっきり見える。
時間は分からない。だけど、朝は随分前に来ているはずだと思った。此処には時間がない。そう思った。
だけど自分がはっきりといる。まるで自分が光る魂そのもののように。むき出しのまま、闇に浮んで居るような気がした。
俺って一体なんなんだろう。死神でも、陰陽師でもない。
紫 音華だ。それ以外に自分と言える何かがない。そうだろ。なんで俺、此処にいる?
音華はもう一度人形をちぎりとって水に浮かべた。それには自分の意思は関係してないような気がした。
心は乱れ続けてる。それは波紋のように、伝わって、揺れて、止まらない。ぶつかるまで止まらない。

俺 此処で何をしているんだろう。

外は雨だ。直感した。外は全く見えない。音も聞こえない。暗闇がこの蔵の内側の全て。
耳の奥に別の器官がある気がした。それくらいはっきりと直感した。雨が降ってる。
なぁ、ここって出口、あったっけ。
出口なんてない。それも、同じくらい直感した。俺は今、出口のない洞窟の中に居るんだ。
それは自分を飲み込むように包みこむ。もう溶けて消えてしまいたいくらいの闇だ。
この人形のように。
また溶けてしまった。
あぁ、雨だ。


「蔓様。」
彼女は振り向いた。長い黒髪がゆらんと揺れた。
「なにもあなたが運ばなくても・・・あの娘に用があるんですか?」
蔓の両手の上には盆。
「朝、呼んでも返事がなかったのでしょう?今行っても・・・・。」
「解ってますわ。」
気高い。そう思わせる少女だった。こんなに小さい身体なのに。
「だけど、見てやりたいんですわ。あの人があの蔵の中からどうやってでてくるか。」
「・・・・・・・どうしてですか?」
「・・・単なる興味ですわ。失礼します。」
歩きだした。
どうしてですか。私が訊きたい。鬘は心の中でそう呟いた。
どうして、自分がこんな真似をしているのか、理解できない。
ただ、そうしようと決めた。それはとっさに。だけど生半可ではなく。そうしてやろうと、考えて、申し出た。
「・・・・・・・・・雨。」
蔓は顔を上げた。
「・・・・・・・・・もうすぐ・・・冬ですわね。」
息が白かった。打たれる薄い緑の草を見つめた。


「雨か・・・。」
芳河が空を見上げて呟いた。白い雲。薄い灰色。
スズルの声が聞こえた気がした。
道を辿るばかりは、やめようぜ。
あいつが何を言いたかったのか、重々分かった。理解できた。
「芳ー・・・河。」
峰寿が廊下の角を曲がってきた。
「どうした。」
「いーや。ちょっと休憩だからさ。暇つぶし。」
「俺は暇じゃない。」
「今ちょっとエリカ怖いしさ。エリカの部屋禁煙だし。」
「俺の部屋でも吸うな。」
「かったいこと言わない。」
カチ。ボシュ。火がつく。マルボロ。煙が舞う。ふうっと峰寿は吐きだす。
「仲直りしねぇの?」
「・・・・・・・・エリカか。」
芳河は灰皿を取り出して峰寿に渡した。
「あいつが一方的に怒ってるだけだ。」
「滅多に怒んないのにね。」
「・・・峰寿。俺とエリカを仲直りさせたいのか、俺を責めたいのかどっちなんだ。」
「さーね。どっちも、かなぁ。」
峰寿の顔は笑顔じゃなかった。
「だって、芳河。俺らがその前日に言ったこと、結局、全部否定したってことだろ。」
「否定したわけじゃない。」
「おんなじだ。」
ふぅっと深い息で白い煙が舞う。
「音華ちゃんのこと、そんなに大事じゃなかった?」
芳河は答えなかった。
「俺らとおんなじ目に合わせて、どうすんだよ。」
こちらを見ない峰寿の長いまつげが瞬きを繰り返す。
「俺が、守ろうっていったのはさ。つまり。俺らと同じ鉄を踏ますことだけはやめようなって、ことだったんだよ。」
そのまつげが、目を閉ざす。
「生まれる前から、結婚の相手が決まってたりさ。学校には、いけなかったり。箱に閉じ込められたり。その箱の中に居る、陰湿なやつらの中に混ざっていかないといけなかったり。生まれてくる前から、自分の子どもを手放さないといけないと言われたり。」
峰寿がゆっくりと目を開けて芳河を見た。
「間違ってると思わねぇの?」
芳河は黙っていた。
「それ、指示されたからって、正しいことか?」
「・・・・・・・・・・・・お前も、そうとう怒ってるんだな。」
「あれ?そうかな。」
峰寿が笑った。
「でも俺、音華ちゃんのことすごく好きだからね。音華ちゃんをいじめる悪い芳河君のことはちょっと腹立っちゃうかなぁ。」
ちゃかす。その笑顔がすぐに真面目になる。
「それだけじゃなくてさ。芳河。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
「俺らが怒るのは、お前が何も言い返さないからだ。」
「・・・・・・・・峰寿。」
「お前がいつも、従うだけだからだ。」
峰寿が芳河を見つめる。まっすぐに。
「お前はいつも、そうやって、自分を犠牲にするからだ。」
「・・・。犠牲だと思ったことはない。」
「はは。うん。そういう所。なんか、すんなり受け入れちゃうところに腹が立つんだ。」
峰寿が笑った。


眠い。
まぶたを閉じた。
何度。人形を溶かしただろう。わからない。だけど手元にある紙の人形は何度千切っても減らない気がした。
芳河なら。芳河が居たら、この散乱した集中を子鬼殿とかつかって叩きなおしてくれるだろうか。
冷たい瀧の中につっこまれて、頭を冷やさしてくれるだろうか。まったく。嫌になるくらい、集中できなかった。
もう、夜だ。きっと。雨も上がった。張り詰めた空気に星がとても映えている。きっと。
眼に見えて居ない蔵の外の事はこんなにも手に取るようにわかるのに。どうしてだろう。
この暗闇に、自分がどんどん溶けている気がする。そういえばお腹が減らない。
誰も食事を運んじゃ来ない。まぁいいか。お腹がすいてないなら同じだ。

どうして俺 まったく集中出来ないんだろう


「エーリカっ。」
ひょいっと、今度はエリカの部屋をのぞいた。
「何?」
お、こわ。やっぱり今来るんじゃなかったかな。
「いや。今から急に山下ることになってさ。だからちょっと挨拶。」
「そんなに長いこと行くの?」
「いや。一瞬。」
「・・・挨拶いる?」
「そんなこといわずに挨拶されろよ。」
峰寿が複雑な笑顔で笑う。
「・・・・・・・・・いってらっしゃい。」
「おう。いってくる。」
「・・・・・・・・・・・峰寿。」
「ん?」
行こうとした時に呼びとめられた。
「・・・ねぇ。峰寿にとって、婚約者が居るって、普通?」
「なに、いきなり。」
峰寿は笑った。エリカはじっと峰寿を見た。
「普通のこと?」
「・・・・・・・・・・んー・・・。考えたことないな。普通のことか、普通のことじゃないか。」
「嘘。」
エリカは、峰寿を睨んだ。
「ねぇ峰寿。私たちって陰陽師だよね。」
「あぁ。」
「でも、人間だよね。普通の、人だよね。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁ。」
「何でいつだって、何でいつだって縛られてるの。」
「エリカ。」
「早く・・・もっと早く、すごい陰陽師になりたい。」
エリカは掌で、顔を抑えた。
「此処を変えれるような陰陽師になりたい。」
少しずつ変えていく。それじゃ足りない。足りない。もがいても、もがいても。変わらない。
霊を救える陰陽師には・・・少なからずなれたと思ってる。
だけど、それじゃだめだ。それだけじゃ。
「・・・・・・・・・・・峰寿。」
「ん?」
抱きしめてくれている峰寿の手はとても温かかった。
「ごめんね。」
「いいや。」
峰寿は優しく答えた。峰寿の癖だった。
泣きそうな顔をしてると、とにかく抱き締める。
きっと誰かの泣き顔が見たくないんだと思う。胸の中に隠してしまう。
「峰寿はこんなこと聞かされて、一番つらい立場なのにね。」
「うーん。構わないよ。」
エリカはそっと峰寿から離れた。泣いてはいなかった。
「ありがとう。」
「うん。行ってくるな。エリカの好きな梅ミント買って来てやる。」
「あっは。ありがと。」
「その代わり、できたら早めに芳河と仲直りすることっ。」
「・・・・・・・・・・・。うーん。」
エリカは複雑な笑顔で笑った。

エリカが、ここまで此処を変えたいと思っている理由を峰寿は知ってた。
エリカにとって、故郷は此処であるけれど、事実を述べてしまえば彼女は養女だった。
それも異国から、このせまっくるしい世界に運ばれてきた女の子だ。
陰陽師であることに誇りを持っているし、この先も陰陽師でありたいと願っている。
だけど、その場所は、その足元はエリカにとってとてつもなく辛いものだったに決まってる。
向けられる好奇の目や、裏づけのない偏見、妬みもあっただろう。それらを一心に受けて育ってきた。
泣いたりすることはなかったが、その心が常に苦しんでいるのは幼い頃よくわかった。少なくとも峰寿には。
此処が無情の世界だと呟く。
ずっと、涙を流す若草様をその傍らで見てきたから。
エリカは知っていたから。若草様が自分の子どもを失ったことを。
それは直感的に、それは彼女の動作一つ一つから。
そしてそれが、この一門の決めた事だからだということも、知っていた。
エリカは若草様の事がとても好きだったし、此処で一番信頼していたんじゃないかと思う。
若草様が泣くたびに「絶対すごい陰陽師になろうね」と呟く。
それは此処を変えれるような陰陽師にという意味だったんだろう。その目は真剣で。その声は芯がある。
こんな風に誰かが苦しむ重たい枷があるならば、壊してやりたい。
音華が帰ってくるときいた時、エリカにも思うところはあったはずだ。
吐きかけられるだろう陰湿な言葉も、向けられるであろう新しい好奇の目も、容易に想像できていたはずだ。
だけどエリカは、音華を自分の妹のように思っていた。
自分と同じように好奇の目にさらされ、裏づけのない失望や、意味もない嫌味をぶつけらる音華を、自分に重ねてしまって仕方がなかったのかもしれない。
だから、エリカの音華を守ろうという気持ちは真剣だった。
絶対に若草様のようには扱わせない。絶対に不条理なしきたりに彼女を巻き込ませたりはしない。
それが、エリカに出来る若草様への恩返しだったからだ。

「俺も・・・いっちまえば、おんなじか。」
ふっと呟いて、峰寿はため息をついた。


On*** 31 終わり




■ホーム■□□   拍手   意見箱   投票
index:         10
index: 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

index: 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
index: 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40
index: 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50
 

 


 

inserted by FC2 system