高速道路。何年ぶりだろうか。

「芳河。」
「なんだ。」
「・・・時々変なものが見える。」
「無視しておけば問題はない。」
はい。
高速道路というものが、こんなに異形の物で溢れているとは思っても見なかった。
世界が変わって見える。
「芳河。」
「なんだ。」
「この格好で、高速インターチェンジ・・・降りたくない。」
袴。
「ならトイレは我慢しろ。」
鬼。
どうしようもありませんが。
京都から、岡山への長い旅。およそ3時間半で岡山県にたどり着く。そのあと高速を降りて、その例のK峠に行くそうだ。
身震いした。行きたくない。本音を言うと。怖い。
どうして自分を連れてきたんだろう。京都に置いて行けばいいのに。この間みたいに。
「あ・・・これ。」
小さく流れていたラジオに気がつく。
「何か言ったか?」
「この曲。誰だっけ。映画のやつ。」
ボンボンとなるベースが特徴的なオールディーズ。
「Stand By Meか。」
「あ、それそれ。この前峰寿に聞かせてもらったんだ。悪い、音ちょっとだけ上げてくれないか。」
運転手に頼む。彼はボリュームつまみをつまんで音量を上げた。
「お前も一応知ってるんだな。」
芳河がぱっと曲名を答えたのが意外だった。
「峰寿が無理矢理聴かせてきたからな。」
ガス抜きとして?
「映画とか見るのか?」
「これは見たな。死体を探しに行く話だろう。」
「そ、そうだっけ。なんかヒルのシーンしか覚えてねぇ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あのシーンは、思い出したくないがな。」
芳河は窓の外を見た。
「エリカなら本持ってるかな。英語で。・・・スティーブン・キングだったよな。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・お前。実は結構映画とかしってるんだな。」
「失礼な奴だな。人並みには知ってますけど。」
「・・・・・人並み、か。」
こっちを見ずに、芳河は呟いた。
「音楽は買えなかったけど、映画は金曜ロードショーとかで見てたからな。テレビは在ったんだ。」
施設を思い出す。チャンネルの奪い合いの光景が懐かしい。音華はそんなにテレビは見るほうではなかったが。
「スティーブン・キングは、一時期BSで特集組んでてさ。ITは・・・怖かったな・・・。」
おっそろしい。一時期ピエロが怖くてたまらなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・なんだよ。急に黙って。」
芳河のほうを見る。相変わらず外を見ている。ラジオが違う音楽を奏でている。音華の知らない音楽だ。洋楽。
「・・・あ、わり。音量、下げてくれるか。」
運転手は音量を元に戻した。音華は横目で芳河を見つめる。なんだ、急に。

車は高速を降りた。
ラジオだけが小さい音量で耳に届く。あの後一言も話すことなく、岡山に到着した。
その間にいくらか知っている曲が流れた。峰寿が聴かしてくれたものもいくつかあった。
「このまま真っ直ぐ峠に向かう。」
芳河がだしぬけに口を開いた。
「昼飯はくわねぇのか・・・。」
「そういうことはインターチェンジで言え・・・・。」
「いや・・・ってっきり、どこかで食べるのかと思ってましたけど!」
「・・・・・・・・・お前が嫌だと言ったんだろうが。」
「・・・・・・・・スミマセン。」
こいつは、絶対に女心とかが分かるタイプではない。確信。
空腹は、食べれないと分かった後で酷く襲ってくる。お腹が鳴った。
「・・・・・・・・・・・しかたない。すまないが、食事をする場所へ向かってもらえますか。」
芳河が運転手に言った。運転手は頷いた。
こいつは、食べない気でいたんだろうか。何故こんなにもいつも平然としているのだろうか。
芳河という男は、一体、その芯は一体、どんなものなんだろうか。

「旨ッ。」
「うどんだろ。」
「いや、俺、うどん久しぶりだからさっ!しかもこんな旨いの初めてだ。」
眼をキラキラさせて音華が言った。あの寺ではうどんはでない。
「・・・・・・・・・・好物なのか?」
「ん。基本麺類は好きだな。」
汁まで飲みます。芳河はその行儀の、お世辞にも上品とはいえない様を見てため息をつく。そんな行儀を気にする定食屋でもないが。
「あ・・・、でも芳河。俺・・・お金もってきてない。」
気がつくのが遅い。最近は無料で飯にありつくことに慣れすぎていたらしい。
「心配するな。」
芳河はそばを食べ終えて、熱いお茶を飲みながら言った。
「ほーう。おっとこまえー。さすが陰陽界の光源氏は違いますね。」
「なんだそれは。」
音華は、はっと笑った。
「俺は、光源氏が嫌いだ。」
「・・・だからなんだ。」

「K峠はこの山か。」
「・・・行くんですか。」
「此処に居たいのか?」
「いいえ。」
一人で残されるよりはましだ。・・・ましか?どっこいどっこいな気もする。
車は進む。なんだか心臓がドキドキしてきたが、まだ何も嫌な感じはしない。
ちらりと芳河の横顔を見る。
エリカの「顔が整っている」には、まぁ、賛成しないこともない。
「なんだ。」
「いいえー。」
いきなり振り向くな!
「とにかく俺は、光源氏が嫌いなんだ。」
「・・・だから、なんだ。」
車は進む。この峠は結構事故が起こるらしくて、花のお供えが沢山ある。
「・・・・・・・・・寒い。」
音華は呟いた。
「・・・気分はどうだ。」
「悪くはない。まだなにも変な感じしないし。」
「・・・気分が悪くなったらすぐ言え。お前香は持ってるだろうな。」
「持ってるよ。」
「俺から離れるなよ。」
「・・・おう。」
むかつくんだか、優しい奴なんだか、わかりづらい男だな。
車は止まった。芳河は1時間後此処に戻ってくるように頼んだ。運転手は愛想よく笑って峠を下った。
「・・・・・・・・・・・・芳河。」
「なんだ。」
「・・・・・・・・・・・・なにか聞こえる。」
「・・・・・・・あまり耳を傾けるな。此処は、ムジナが沢山いる。」
あの鬼火か。頷いた。
芳河が、眼を閉じて周りの様子を探っているように見えたので、音華は黙った。黙って、霊視した時と同じようなこころもちで周りを見渡した。
不思議な山だと思った。なんだろう、不自然だ。無音ではない。
それは当たり前なのだが、その中のどこかの音の層がすっぽり失われたかのような。そんな奇妙さを感じた。
ぐるりとゆっくり辺りを見回す。眼を閉じる。そのままもう一度辺りをぐるりと見渡す。
ぎくっとした。
瞼の裏の暗闇に、誰かが映った。
「・・・・・・・・・なんだ。」
「へ?」
顔を上げる。すぐ其処に芳河がいる。反射的に、芳河に一歩近づいたらしい。音華は一歩離れなおす。
「・・・何か見えたのか・・・?」
芳河が問う。
「・・・誰か居た。」
「どんなだった。」
「・・・白い感じ。女の人だと思う。一瞬で分からなかった。でも関係ないだろ。神様は見てない。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・行くぞ。」
そう言って、芳河は歩きだす。音華はあわてて追いかける。
昼なのになんとなく薄暗いこの峠。公道なのに、車の通りの悪さ。一言で言って不気味で怖い。
「行くって、中に入るのか?」
「入らないでどうする。」
「・・・・・だって・・・・。」
そっちのほうは、確かさっき見えた女が居た方向だ。なんとなく行きたくない。
「来い。」
ぐっと芳河が音華の手を握って、引っ張った。
引き抜こうと思ったけれど、多分、このままのほうが怖くないと思ったので、放置した。
芳河の手は思ったよりもずっと温かった。むかつくけど。
山の中に入った瞬間だった。
「・・・・う。」
いきなり気持ち悪くなった。耳鳴りが始まる。この間と同じだ。同じ毒を吸っている気がした。
「カイジョウ・サン・トウカカカネンウツガイスタイス・・・・・オン!」
芳河がぶつぶつ何かを唱えた。そのとたんに毒が身体からストンと抜けた気がした。
息がうまく吸えるし、耳鳴りも半減した。
「平気か。」
「おう。」
「今のが、五行の木の真言をもとに組み合わせた音の数珠だ。」
「・・・あ、はい。」
此処でも講義ですか。
「・・・・・・・・・これだな。」
「・・・・・?・・・・・あ。」
芳河が足を止めた。そこには、何かが崩れたような跡があった。もともと石が積んであったようだ。
「・・・・・・・此処でこけたんだな。」
「案の定、これは封神の石だ。・・・大分古いな。ガタが来ていたか。」
「・・・陰陽師が封印したんだろ?昔の。」
「あぁ。見たところこれは・・・鎌倉後期に施された封だろう。定期的に封印し直さなければならないのだが、随分前にやめてしまったらしい。」
「・・・見ただけで判るのか。」
「この石の形だが・・・これは鎌倉後期の陰陽・・・―」
「あ、分かりました。いいです。ありがとうございます。」
遮る。講義は、今は、いらん。
「・・・・なんにしても、此処にはもう禍神はいない。あの根付き方からして、あの女性に完璧に喰い憑いている。」
「・・・・・・なぁ、でもさ。」
「なんだ。」
「この石さ、そんな最近崩れたんじゃないんじゃねぇか?」
「・・・何故そう思う。」
音華が指をさそうとして止めた。神様の石を指差すなんておっかない。
「だって、このさ、多分継ぎ目だったところちょっと白いけど、苔が生えてる。」
「・・・・・・・・たしかに。それなら、あの禍神は随分前に解き放たれていたことになるな。」
芳河がかがんだ、その時掌が離れる。
芳河が眼を細めて黙り込んだ。音華も黙ってその芳河を見つめる。
「オン・・・・。」
ボツ。呟いたと思ったら芳河の横に白い霧の爆発が起こり、側に妙な色合いの多分生き物が現われた。
「うゎ・・・っ!」
音華は驚いて一歩離れる。香を握りしめる。
「安心しろ。式神の『嘉馳馬』だ。」
「・・・・は・・・じめまして。」
挨拶してみる。
芳河がかがんだのと同じ位の大きさのそれは、紫色が映える、自然の物とは思えない。芳河はその嘉馳馬のほうを見て、何かを告げた。すると嘉馳馬はガツンと地を蹴り、馬のように駆けだした。
「・・・な、なにやったんだ?」
「少しこの辺りを調べさせにいった。嘉馳馬は地の式神だからな。森の民とも話ができる。」
「・・・へ、へぇ。」
「そういえば初めて見たか。俺の式神。」
頷く。
「気になる事がある。いくぞ。」
「・・・お、おう。」
また歩きだす。
山の中は思ったよりも歩きやすかった。足元が湿っていて気持ちが悪かったが、低い木があまりないので、石や木の根に気を付けていれば大体真っ直ぐ歩けた。のぼりではあるが。
「Stand By Meみたいだな。」
呟く。
「ヒル降ってきたら怖えな。」
「ヒルの話は止めろ。」
「・・・なんだよ、お前軟体動物ダメ系?」
笑った。音華だって好きではないが、別にダメではない。
「そういうんじゃない。」
芳河はそれきり黙った。
するとさっきの、式神がストンと横についた。どこから帰ってきたのか分からないが突然現われた。
「ご苦労だった。」
芳河が嘉馳馬に触れてかがんだ。そして小さな声で、側に居るのに聞き取れない声で話をし、頷いたあと、式神を消した。
「・・・・・・・・・なに調べてもらったんだ?」
「あの禍神が、この山でどうであったか、山の民に尋ねて回ってもらった。」
「・・・・・・・なんて?」
「あの禍神は、100年ほど昔に誰かが石を倒したことによって、半分解き放たれた。」
「半分?」
「いくつか石があっただろう。そのうちの上の部分だけが崩れたらしい。だからこの山からは出ることはできなかったそうだ。このK峠の霊圧が、ここまで高まって霊が集まりやすくなっているのはそのせいだ。そのおかげで心霊スポットとしても随分有名になっていた。」
「・・・・・・・・・・でも、あれ全部崩れてたぞ。」
「きっと、先日彼女が最後の石を倒して、完全に解き放たれたんだろう。」
「・・・それで、彼女に取り付いたんだ。」
「あぁ、でも、不自然だ。」
「不自然?」
「そうだとしても、あそこまで怒りを買うものか。」
芳河は立ち止まった。
「此処か。」
「・・・・・・・・・・・っ。」
音華は急な吐き気に襲われた。よろめきそうになる。一歩下がる。
「離れるな。」
芳河が止める。そんなこと言っても、此処にいたら確実に吐く。
そこには何も無い。何も無いが。何かがある。
「・・・・・・・・・・・・おそらく此処は過去あの神が祀ってあった小さな祠があったんだろう。」
見て見れば、人工物の破片が転がっていたりもする。縄や、木片。
芳河がそれを見渡す。随分昔に壊されたようだった。
「・・・。オン・・・。」
ボッ。
またあの霧が爆発する。何も出ては来なかった。何も出ては来なかったが、音華は見た。
「・・・っ!」
向こうにある細い木に、人の手が生えている。正確に言うと、おそらく木のうしろに居る。誰かが。
おそらく。白い、彼女が。
「・・・・・・・・・・本当にStand By Meになったな。」
「・・・へ?」
そう言って芳河の目線をおって、霧の晴れた地面を見る。
「!」
言葉を失う。いや、小さく叫んでしまったかもしれない。
此処にも手が生えていた。白い、腐敗しかけた手が。
「・・・・・・っこれは・・・・――」
「あの彼女のものだろう。」
芳河が、木の後ろに居る腕のことを言っているのが分かった。
「なるほど。これは、心底恨みをかったな。」
芳河はため息をついた。
「禍神の封印を壊した挙句、その家である祠跡の下を血で汚し、神にとっては汚れである死の体を埋めたのなら、逆鱗に触れたはずだ。」
「・・・・・・・・・っちょっと待てよ・・・。」
芳河が、四歩歩いて近くに落ちていた、新しい人工物を拾い上げる。
「・・・携帯?」
「・・・・・・・・・・・・・彼女のものだろう。」
音華は木を見つめる。吐き気は絶え間なく襲ってくる。
「・・・・彼女は・・・・・・・・・。」
「話を聞けば分かることだ。」
芳河は、あの白い腕のほうに体を向けた。
「ついて来い。必要ならばコレに留めてやる。」
携帯を掲げる。白い腕はぐねっと動いた。
「・・・亡骸は、後で人を呼んできちんと弔ってやる。安心しろ。」
もう一度うねる。
「心配するな。報いは受ける。」
白い腕はふわんと動いたと思うと、消えた。
「・・・・・・・・・・・・。芳河。」
「帰るぞ音華。」
芳河は体を向き直らせスタスタと歩き出した。音華はあわてて追いかけた。
吐き気はいつの間にか消えていた。この異臭はあの死体から出ているものだとはっきり分かった。
後ろを振り返り、白い腕を見た。動かない。死んだ女の腕。
凍える、冷たい、孤独の土の中。


「・・・・・・・・・っ。」
車に乗る前に、また吐き気が戻ってきた。音華はトイレに駆け込んで、暫らく動けなくなった。
「・・・・・・・・大丈夫か。」
「・・・あぁ。」
やせ我慢だけど、一応頷いて車に乗った。
此処からまた4時間弱、車に揺られなくてはならない。窓の外に映る奇妙なものたちを視ながら。
「なぁ、芳河。」
「なんだ。」
「・・・・・・・・・・なんで、人は他人を殺したり、捨てたりするんだろう。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
黙った。音華の眼は閉じていた。ガラスにもたれかかって半分寝ているようにも見えた。
芳河は黙ったまま外を見た。流れていく光の筋を眼で追った。
音華の寝息が聞こえたのはそのすぐ後だった。
ラジオがFM大阪になってから、矢井田瞳の『Life’s like a love song』が2度流れた。

「着いたぞ。」
音華を目覚めさせた芳河の声。
「・・・山?」
「あぁ。立てるか。」
「ざけんな、立てる。」
けっこうやせ我慢だったが、気合を入れて立ち上がり歩いた。
「・・・・・・・・・あの死体・・・・・・警察に連絡したのか。」
「あぁ。」
「・・・・・・・よかった。」
眼を閉じた。あの土の中から、やっと出る事が出来るんだ。
山から見える星空は、怖いほど美しかった。音華は大きく息をついて見上げた。
「行くぞ。」
芳河が呼んだ。

「電話が掛かってきた。」
「・・・なんの?」
朝食の途中で芳河が告げた。
「依頼主から。お払いはもういいから、あの身代わり人形をくださいと。」
「・・・・・・・・・・・・人形・・・ありゃ、お払いは要らない、・・・か。」
「あの人形は、一時しのぎだ。何度も遣うとそれが身代わりだと相手も気付く。ならばそれを超える力でもって向かってくるようになる。直に効果は切れる。」
「・・・じゃあ。」
「それはできないと説明した。明日、こちらへ来てもらうように言った。」
「・・・そうか。」
きっと、新聞に彼女の死体が発見された事が乗ったのを見たんだろう。
「お前も、たち会うか。」
「・・・・・・・・・・払うときか?」
顔をしかめた。
「無理ならいい。お前には、アレが近くにいるだけで中てられるおそれがある。」
「・・・・・・・・・・・居たい。」
「・・・そうか。わかった。」
芳河は味噌汁を飲み込んだ。

芳河に謎の呪文を浴びせてもらい、あの匂い袋を首からかけ、完全防御の状態で挑むことになった。
心臓がドキドキする。門の鈴が鳴って、その瞬間に心音が高鳴った。
「来た。」
嫌な感じが、たちこめた。それはこの間よりも一層強いもので。音華は香を握り締めた。
婆が出向かえて、この若草の間に少しずつ近づいてくる。広い間で芳河と二人正座して座っていた。
音華はすでに体がこわばって、畳をまた目で追っていた。横で正装した芳河が平然と座って眼を閉じている。
ギシ・・・。廊下の床板が軋む。心臓が小さくなったのを感じた。障子に映る影を見る。
この間よりもそれは大きく、禍々しく、彼女の頭部を覆っている。目玉であろう白い影の空洞は、一つではなかった。
はっきり言って、直視するのが怖い。
頭の中で先に想像して心構えしてたとしても、アレは見るたびに心臓が飛び出しそうになる。
そういうショックを受けるものだ。息を大きく吸って吐いた。
さぁっと障子が開いて、婆が入ってきた。
「おや、音華も居るのか。」
「いちゃ悪いか。」
婆はほっほと笑った。
「せいぜい、意識が飛ばんように気張っとき。」
「っせぇ・・・。」
汗がすでにつたっているので、あんまり噛みつけもしない。
おでましだ。
後ろから彼女が入ってきた。あぁ。想像以上に脳みそを揺さぶる恐怖が体を襲った。
この間まで彼女の物であった口部も、化け物のそれになっていた。
顎は閉じることを知らないのか開きっぱなしの口ががばっとくっついていた。
「したら、頼むで芳河。」
婆が芳河のほうを見て言った。
「音華は、くれぐれも足、ひっぱらんようにな。」
「・・・・・・・・・・・・・・・っせぇ。」
婆は楽しそうに笑った。
そして、廊下に出て、どこかへ消えた。
沈黙が訪れた。
音華は、今日は、直視した。睨むように、その禍々しい姿を見つめた。
芳河が黙ったまま、礼をした。
「・・・・・・・・・身代わり人形は、全て千切れましたか。」
ソレは頷いた。
「あなたに憑いている、その禍神を、今日は剥がします。」
「私は・・・助かるんですか・・・っ・・・・?」
泣き声だった。泣いているんだろうか。
「助けてください・・・っ。」
泣いているんだろう。
「禍神を払うことはできます。そして禍神をもう一度封じることも。」
芳河が静かに、落ち着いた口調で言った。
「ただ、もう一度封じるには、時間が掛かります。」
「・・・・それじゃ・・・。」
「そのあいだ、いくつか不自由なおもいをしてもらわなければなりませんが、言う通りのことを守ってもらえれば、なんの問題もなく封じる事が出来ます。」
芳河は立ち上がって、部屋の隅にかけてあった、金属の、先に丸い輪っかがいくつかついたものをとった。
そして、身体の前に構え、術を唱えだした。ソレはいつもとは少し違う響きの、より長いものだ。
その詠唱をききながら、目の前のあの目玉が異常にぎょろぎょろし始めた。息を呑む。
「カラビリツカカ・・・・。」
芳河が問いだすようにそう言った。目玉はぎょろぎょろして、最後に芳河を捉えた。
「カラビリツカカ・・・リツカカ・・・。」
芳河がもう一度言った。すると目玉は今度はぎょろんと音華を見た。音華は小さな声を漏らしたが、じっと体を固まらせた。
だが、また芳河のほうに目線を向けた。皿のような眼だ。
「貴殿の荒ぶる故、この目で見、知っております。」
今度は日本語で話した。
「しかしながら、申し上げますは、貴殿はかの山の一主。なにとぞ、もとの地へ帰り山に眠りください。百代の均衡が崩れつつあります。」
ぎょろんと、また眼が動く。こくんと頭の部分が動く。
「名はなんと言う。」
あの口が動いた。息のような声が、頭の中に気味悪く響くような声がどろんと流れ出した。
「名乗るほどの物ではございません。」
即座に芳河が言い返す。
「主は。」
そいつは音華を見て言った。首もとが絞まる思いがした。
「そちらの人間には名はありません。下賤の物ゆえ、貴殿に耳に聞かせるような物は持っておりません。」
おい。
音華が芳河を見る。芳河はちらりと音華を見た。音華はその眼で悟る。
―――名前を言うな。
「貴殿の社は我々が新たに建てます。神聖な土についた汚れも払いましょう。どうぞ、穏やかに貴殿の土地へお戻りください。」
ソイツはまるできく耳持たない感じでグルングルンと目玉を動かしていた。口が開いて内から、黒い煙を吐いた。
シャン!
芳河が棒を鳴らした。
「止めろ。」
黒い息をはきならそいつは言った。
「その音を止めろ。」
「カラビンシャ・・・ララシッカ・・・・。」
芳河はまたぶつぶつと詠唱を始めた。音華はなぜか落ち着いていた。
目の前の目玉の化け物は口を持って話したほうが恐怖を与えないらしい。
芳河が詠唱をいっている間、ソイツは目玉を動かすものの、口を開いて何かを言う事がなかった。
そういえば、居るはずの人間の女が一言も喋らない。意識はあるんだろうか。
「ランカカカ・・・・。」
シャン!
また鳴らした。
「止めろ。」
ソレがまた言った。
「チルカ・・・」
芳河が言って頭を下げた。
「帰っては頂けないのですね。」
「帰れぬ。」
「何故ですか。」
「虚けめ・・・見たのであろう。」
芳河は頷いた。
「我は神である。血の汚れは毒。」
「では、清めに行きましょう。清めれば穏やかにお帰りいただけますか。」
「帰れぬ。」
いってんばり。音華は、もう一つ生まれた眼が、常に自分を見ていることに気がついていた。
一つは芳河を見ていたりギョロギョロと動くのだが、そのもう1つの眼だけは音華を見据えて目を逸らさない。
「何故ですか。」
繰り返す。
「この人間だ。」
芳河は眼を細めた。
「この人間が、我に血を吹きかけた。」
「承知しています。」
シャン!
「止めろ。」
芳河はまた詠唱を始めた。ぶつぶつと、それは不思議な響きで、耳をつきぬける。
その間にシャン、シャンと二度ならした。その時はソイツはなにも言わなかった。
「カランビカ・・・チルカ。」
芳河は詠唱をやめて、棒を構えたまま見据えた。
「しかし彼女に其処まで深く憑いていても仕方がないと思われますが。」
「意味のないことなど無い。」
「喰らうつもりですか。」
「対価だ。」
芳河は、ぎゅっと棒を握り閉めてその目玉を睨むように見つめた。
何故芳河はあの眼をあんなに直視していて、気分が悪くなったりしないのだろう。
音華は常に向けられる刺さるような視線にすでに気分が悪くなっている。
「対価。」
芳河は呟いた。
「罰・・・。」
「罪に罰。」
すうっと、芳河が息を深く吸い込んだのがわかった。音華はちらりと芳河を見る。
悟る。
―――ここからだ。
ここから、勝負。
芳河の頬に汗がつたうのを音華は見た。


On*** 16 終わり



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