すぐそこまで近寄って だけど触れられなかった

大晦日の夜のことだった。
「・・・・・・・・・・今年も終わりか。」
音華は呟いた。空は満天だった。この山からは本当に星がよく見える。
長い様で短い一年だった。特に後半。まじで全てがゴロリと変わった。
息が白い。
「さぶっ!」
「音華。」
部屋に戻ろうとした時だった。
「・・・てめぇかよ。」
舌打ちした。芳河が音華の部屋を訪ねてきた。
「なんだよ。年末ギリギリまでお前の面拝んでいたくないので、早めに去れ!」
「残念ながらお前に用がある。」
殴ろうかしら。
「明日、東に行く。」
「・・・あ・・・?」
音華は構えた。
「・・・また・・・修行かよ・・・。」
「いや、全員だ。」
「・・・エリカも?」
「あぁ。」
「峰寿も・・・?」
「・・・・・・あぁ。」
「なんで?」
「正月は一門全員が集まる。一年の挨拶だ。」
「・・・へー・・・。」
「寝坊するなよ。4時だ。」
「なんて!?」
「4時。数字も分からないのか。」
「ちがう!なんでそんなに早いんだよ!」
「10時には東に着かないといけない。」
「おかしいおかしい!だったらなんで今日行って泊まらなかったんだよ!」
「一門全員が泊まれる場所がない。」
「ざけんな!」
「いいな。4時には出る。遅れるな。」
芳河はそれだけ言うと背中を向けた。
「もうちょっと早く言えよ!」
もう10時だ。仮眠するには遅い。音華はため息をついた。
そして芳河がいなくなったのを確認してから庭に出て、足早にあの場所へ行った。よじ登るのには随分慣れた。
「・・・・・・・母さん。」
呟いた。そして墓の前にかがみこむ。そして手を合わせた。
「よっと。」
立ち上がって、さっと部屋に戻った。
まったく芳河のやつは、何日東に行くとかそういうことは全く何も言わなかった。
支度しなきゃいけないものが分からないだろ!切れかけながら音華は鞄に思いつくものを詰め込んで布団に飛び込んだ。
目覚まし時計は3時にセットした。
そういえば、初めてかもしれない。こんな大晦日。
「・・・・・・・・・・・・・紅白も見なかったな。」
施設を思う。
今頃はみんなもう寝はじめてるな。っていってもこの日だけは夜更かししてできる限り起きていたけど。
除夜の鐘を聞きながら、トランプをして、遊んでた。
そういえばこのあたりには鐘ってものがない気がする。本当になんなのだろうか此処は。きっとあらゆるものから一番遠い場所なんだ。
目を閉じる。眠って越える正月は初めてだ。
思ったよりも簡単に眠りにつけた。

「3時起床。あけましておめでとうございます。」
一人言を言ってむくっと起き上がった。
まだ外は真っ暗だ。当たり前だけど。
音華はすぐに袴を着て、顔を洗い、準備を整えて4時を待ち、門の所へと行った。もうエリカがそこにいた。
「おはよう音華ちゃんっ!あけましておめでとう!」
「早すぎる。・・おめでと。」
アクビが出た。エリカは笑ってた。
「俺、行くこと知らなかったんですけど。」
「あれ、芳ちゃんが言わなかった?」
「いった。昨日の夜10時。」
「あははっ!」
芳河が来た。
「行くぞ。」
そして車に乗り込む。芳河が助手席に、エリカと音華が後部座席に着いた。
「峰寿は?」
「・・・峰寿はもう出た。」
「あ・・・そ。」
そういえば、最近全然峰寿を見ない。
「心配するな、行けば会える。」
「おう。」
真夜中のドライブ。


朝日が見えた。
「・・・・あ、初日の出だ。」
音華が呟いた。エリカは眠っていた。芳河は分からない。だけど振り向かなかった。
音華は目をこすって、もう一度目を閉じた。もうすぐつくだろうか。高速道路。
車が止まって、もう一度目を覚ました。今度起きた時、エリカはすでに起きていた。そして微笑んでおはようといった。
「着いたぞ。降りろ。」
「へぃへい。」
正月しょっぱなの命令をくらいました。今年一年、改善は見込めない。
車を降りて久しぶりに足を伸ばした。
「・・・・・・・・・・。」
あぁ。この館か。この間、修行できた場所だ。なんかあんまりいい想い出がない。
そこにはあの時いなかったたくさんの陰陽師がいた。たぶん、陰陽師。すれ違いざまに、おめでとうが飛び交う。
全然誰が誰だか分からないけれど。
「もう中に入るぞ。」
「・・・中?」
「お堂の中だよっ。挨拶するの。」
「へぇ。こんなに人が入るのか?」
「うん。此処、すっごいおっきいからね。ぎゅうぎゅうだけど。」
エリカがにこやかに言った。
「いこっ。」
「あ、うんっ。」
手を引かれて歩きだした。
「エリカ殿。」
エリカが呼ばれて振り向いた。手が解かれた。
「あ・・・。おめでとうございます。明豊様。」
そこに立つ若いとも老いてるとも言い難い男にエリカは丁寧に頭を下げた。
「お元気ですか。」
「えぇ。」
エリカは微笑んだ。穏やかに。
「明豊様は・・・。」
「うん。悪くはない。」
「お子が生まれたんですよね。」
「うん。ようやっとね。」
「おめでとうございます。」
「ありがとう。また、後でね。」
「はい。」
その男が過ぎ去ってから、エリカは音華の方に振りかえり、そして手をぎゅっと握りなおした。
「誰?」
聞いてみた。
「西院寺の御当主。」
「・・・・・・って。」
「うん。お父さんになるはずだった人。」
エリカが笑っている。だから何も言わない。音華は頷いて、そうかとただ呟いた。
あれが母と結ばれるはずだった男だったんだ・・・。よかった。と思った。
よかった、とっさにエリカが手を放し自分を隠すように振り向いてくれて。
彼が自分を見て何も思うところがないなんてことはないだろう。優しそうな男だった。きっと困ったような顔をされる。
「座ろう。音華ちゃん。」
「うん・・・。あ芳河は・・・?」
そういえば、途中からいなくなっていた。
「多分誰かに捕まったんじゃない?」
「永久に捕まってればいいのに。」
「あはは。はやくっ座ろうっ。」
音華は頷いてエリカの横に腰を落とした。言うまでもなく、正座。
何が始まるかは知らない。ため息交じりで息をつき。じっと前を見ていた。
すだれが掛かっている。そこに壇があって、座布団が見える。
その前に一段低い壇があって、そこにもいくつかの座布団が並んでいる。
偉い人が座るんだろうな。ふと思う。
シャン。と鈴のような音が鳴って。辺りは静かになった。そして厳かな空気になる。
ゆっくりと何人かの袴を着た人間が現われる。そしてあの並んだ座布団に腰をおろしていく。
え?
音華は声をこぼす。
そのうちの一人に、峰寿がいる。
「峰寿・・・っ・・・。」
思わず背筋を伸ばして凝視してしまう。
何でそこに峰寿が?
彼は端っこに座って真面目な顔をしている。とっさにエリカを見る。エリカは前を見続けていた。何も言わない。
そこに峰寿がいることをさも当然の事のように見ている。
いつものひょうきんな笑顔はそこにはない。厳かな空気に染め上げられて、そして真っ直ぐと前を向いている。
後ろのすだれで見えない場所に3人の人間が入ってきた。
勿論すだれで顔なんかは見えなかった。3人の人間は座布団に座った。香の匂いが増してきた。少し煙たくなった。
「よく集まってくれた。」
綺麗で透き通る声がして、音華はふいにその声の主を見やる。女の声だ。すだれの向こうから聞こえる。
でも、この声。聞いた事がある。
そうだ、あの寺の入れない場所から投げられたあの声と同じだ。
頭の中で整理できないまま、その声に耳を傾けた。何を言っていたかはちんぷんかんぷんで、何も憶えちゃいない。
ただ、見た事もない峰寿を見据えて、聞いたことのある声を聴いていた。
その後、何か唱えていたかな、手を合わせて何かを言わないといけなかったみたいだけど、もちろんそんなことは知らない。
それよりも、他のことをずっと考えていた。足がしびれてきた。
時間が気がつけば随分過ぎていて、周りの人間が立ち上がった時にはっとして顔を上げた。
「・・・お、終わったのか?」
「うん?うん。ひとまずは。夜は宴会だよっ。」
「・・・・・・・・・・・うん。」
顔をしかめた。
「・・・芳河は?」
「芳ちゃんは・・・多分ちょっと忙しいんじゃないかなこれから。」
「なんで?」
「挨拶まわりとかしないといけないしね。」
「・・・・・なぁエリカ。」
溢れかえっている疑問が口から漏れる。
「峰寿って・・・何であそこにいたんだ?峰寿って・・・誰?」
「・・・・・あぁ。・・・そっか。」
エリカが悟ったように言った。
「うん。音華ちゃんは知らないんだもんね。そうだよね。峰寿は・・・峰寿から話すわけないか・・・。」
エリカは独り言を呟いて歩きだした。
「それに・・・あの、あの人。真ん中に座ってて喋ってた女の人。」
「・・・あぁ、姫様?」
「姫?」
「うん。この一門を作った人だよ。言ってなかったっけ。」
「・・・あの人・・・あの屋敷にいるよなっ。」
「うん。え・・・?会ったの?」
音華は首を振る。外に出る。足が結構しびれている事に気付く。
「・・・会ってない・・・。でも・・・・すごく不思議な感じがした。だって・・・・。」
「まぁ・・・うん。姫様は特別だ。・・・・此処の一番の陰陽師で、あの人が全て此処を握っているんだよ。」
「・・・なんで峰寿がそんな人と並んで・・・並んではないけど・・・、座ってるんだ?」
エリカは少し考え込んでから音華を見た。
「・・・峰寿は・・・。」
「エリカ様!」
突然声が掛かった。
「・・・あ。こんにちは。おめでとうございます。明石様。」
若い女が微笑んでこちらへやってきた。
「おめでとうございます。お久しぶりですね。」
「はい。」
エリカは微笑んだ。
「芳河様は元気?」
「元気・・・・。だと思います。」
「あれ?一緒の屋敷にいるんでしょう?」
「えぇ、まぁ。でも最近ちょっと疲れてたみたいで・・・。」
「あぁ!あの例の子の結界のせいですね。」
音華はぎくっとする。自分のことだ。彼女は自分にまだ気付いてない。逃げたかった。エリカの後ろに隠れた。
「芳ちゃんが悪いんですけどね。」
エリカは笑った。
「でもエリカ様、元気そうで良かった。」
「明石様も。いつもと変わりなく。」
彼女は笑って手を振りいってしまった。良かった。気付かれなくて。
「・・・・・・・・・誰・・・?」
「うん?明石の君。」
「・・・源氏の恋人か?」
「あははっ、違うよ!なぁに紫の上、やきもちですか?」
「まったくそんなことはない。」
エリカは笑って音華を撫でた。
「・・・それで。峰寿は・・・・?」
音華はおずっと聞いてみた。エリカは微笑むのをやめて、うーん、と言ってからもう一度微笑んだ。
「峰寿は、姫様の従者だから。」
「・・・・・・・・・・従者・・・・?陰陽師だろ?」
エリカは頷いた。
「うん。でも、従者なの。それも、それは、とても大事な。」
「・・・・・・・・そんなに偉いのかよ・・・姫って・・・・。」
「偉いっていうか・・・・。これは。掟なの。」
「掟?」
なんの。
「逃れられないことの一つ。屈辱の鎖。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
エリカは首を振った。
「峰寿は家を継いだからね。だから峰寿は峰寿の家の一応の所の当主ってわけ。」
「・・・・・・・・・・・当主だからあの場所に座ってたんだ。」
「それもある。」
「それ以外に何があるんだ?」
「・・・姫様の・・・側に侍っているってことを、見せるため。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・何だそれ?」
訳が分からなかった。
「・・・それって、悪いことなのか?」
エリカは首を振った。
「ううん。」
「じゃあ、なんで。・・・・・峰寿は隠してたんだ?」
「・・・隠してた・・・。ね。そうだね。隠してた。」
エリカは頷いた。
「それは、峰寿がしてる仕事は敗者の証だからだよ。」
「敗者・・・・?」
音華はなんのことだか分からなくなる。
「・・・・・・・・・音華ちゃん。」
「え?」
「此処はそういう世界だよ。偏見と侮蔑を好む世界だ。」
「・・・・・エリカ。」
「関係ないんだよ。」
エリカの目は真剣だった。
「なんにも、関係ないんだよ。峰寿は。」
「・・・・・・・・・・・・エリカ。」
「・・・行こう。音華ちゃん。ちょっと歩こ。」
「うん。」
頷いた。エリカの目の奥に見えた光が、強くてびっくりした。

「ふぃー・・・。」
峰寿が情けない声をだしながら肩をならした。
「肩こった・・・。」
そしてライターで煙草に火をつける。
「今年の目標は禁煙じゃなかったのか。」
「うぉ!」
峰寿は驚いて顔を上げた。
「芳河かよ・・・。」
「なんだ。」
「なんでもねぇよ、っと。」
ライターをしまいながら峰寿は腰をおろした。
「挨拶まわりはいいのですかいっ?」
「お前こそ、今暇なのか。」
「暇なもんかよ。トイレ行くふりくらい、ちっちゃい罪だろ?」
「・・・。」
「音華ちゃん。俺の事に気付いてた?」
「・・・さぁな。」
「あれ、一緒じゃないの?紫の上。」
「・・・あぁ、途中からはな。エリカが一緒だ。」
「そっか。じゃ、エリカに色々聞いちゃってるかな。」
煙で円を作ってみる。
「・・・で、お前、会ったのか?」
「・・・あぁ、さっき会ってきた。」
「・・・そんだけ?」
「それだけだ。別に必要以上に一緒にいることもない。」
「・・・ふーん。」
峰寿は灰を落として立ち上がった。
「音華ちゃんと一緒にいなくていいの?源氏。」
「・・・。」
「・・・・・・ま、いいか。」
峰寿はふっと息を吹き出してから、携帯していた灰皿に煙草をつっこむ。
「色々、整理してからでいいんじゃね?此処なら人は来ないよ。」
「行くのか。」
「おう。うんこにしても長すぎるだろ。そろそろ。」
「・・・・・・・・後でな。」
「宴会の後になるけどなっ。」
にかっと峰寿は笑って手を振り行ってしまった。
芳河は一人残ってその廊下に座って目をつぶった。影になっているそこは冷たい風しか通らなかった。

夕さりが近づいてきて、宴会が始まろうとしていた。
いちいちバタバタする正月だな。音華は思っていた。正月なんてものは部屋でごろごろしているもんだ。
百人一首をやったり。人生ゲームをやったり。時々外に出て、クソ寒い中でなんちゃらゴッコにも付き合わされたな。
この昼の間出会った何人かの人間はすべてエリカが挨拶をした人間だった。その中の唯の一人も音華のことに気付くことはなかった。
そのたびに胸を撫で下ろした。何かを言われるのは嫌だった。ろくなもんじゃないしな。その全てがだいたい。
「音華ちゃん、私トイレ行ってくる。」
エリカがそういって立ち上がった。音華は頷いた。
「音華ちゃんも行く?」
「や、俺はいい。」
「そっか。じゃ、ちょっと待ってて。」
エリカが手を振って行ってしまってから、音華は息をついて、少しだけ歩いてみた。
空を見た。いい空の正月だ。雲が一つもない。空気は冷たく住んでいる。あの寺ほどでもないが。
「若草様の娘。」
はっとした。そして振り向いた。そこには、さっき出会った、明石の君とかなんとかいう女が立っていた。
「でしょ、あんた?」
「・・・・・・・・・・そうだけど。」
気付いてたんだ。それとも誰かに聞いたのかな。音華は黙ってその黒い髪を見る。短いけど芯のある髪で目を奪う。
「エリカ様は?」
「・・・エリカはトイレ。」
「そ。あなたのおもりも大変ね。」
「・・・・・・・・・・。」
これはいい方向に話は行かない。音華はそう感じて黙った。
「芳河様も。まさかあなたのおもりを何もこの時期にやらされるなんて、思ってもなかったでしょうね。」
こっちだって別に芳河に頼んじゃいない。
「エリカ様も、よく我慢して面倒を見てるわね。」
「・・・・・・・・・・・我慢して面倒見たりするタイプじゃないと思うけど。」
だってエリカはいってくれた。あえてよかったと。
「なっまいき。」
明石は笑った。
「本当に全然似てないわね。」
「・・・母さんに?」
「父親にもよ。」
「・・・・・・・・・・・・・父親?」
こいつは、知っていると言うのか?音華は体を明石のほうに向けた。心臓がなっている。それは耳に届くほど。
「本当に気の毒だわ。芳河様も、エリカ様も。」
癇に障るが、怒る気になれなかった。だって、二人が本当に自分を疎ましがっているかどうかは、分かっている。
「芳河は、鬼だけど別に嫌々俺に陰陽術を教えているよう似は見えないけどな。」
そうだ。あいつは本当にムカツクし嫌いだけど、あいつは自分のことをそれはもうオカンのように大事にしてくれている。そんなことにも気付いてないなんて、気付いてないふりをするなんてことは、もうしない。
「別に芳河の手があいてて、あの山にいたから俺の師匠なんてやらされてるんだろうけど、だけど、それでも芳河は教えることに手を抜いたりしない。」
「・・・・・・あなた、なんにも知らないのね。」
やけにしつこい口調でそういった。耳に障る。
知らない。それには反論は出来ない。峰寿のことも知らない。芳河のことなんかもっと知らない。
「あなたが紫苑様の娘じゃなければ、芳河様がわざわざあなたなんかのために時間を割くはずがないじゃない。」
時間が止まった。
「・・・・・・・・・・なんて?」
しおん?そう言ったか、こいつ?
汗がなんとなく出ているのを感じた。寒くて指先は完全に感覚がないのに。
「本当に何にも知らないのね。こうまで無恥だと滑稽だわ。」
「・・・・俺が・・・誰の娘だって?」
「紫苑様よ。知らないわけないわよね、それくらい。」
「・・・・・紫苑って・・・・・・。芳河の・・・・・・・・・・・・?」
意味が分からない。何を言っている?
想像もしていなかった事実に頭がぐちゃぐちゃに掻き回されている。それはもう、見事なほどに。
「当たり前でしょう。裏陰陽寮の紫苑家の核人よ。」
「・・・・・芳河の・・・・・・・死んだ父親のことを言ってるのか?」
「・・・・誰のこと?」
え?ますます意味が分からない。何を言っているんだこの女は。
もしかして支離滅裂な嘘を言って自分をたんに困らせて楽しんでいるんじゃないだろうか。
だけど彼女は寄せた眉根を放して、あぁ、と言った。
「生家のことを言ってるのね?」
「・・・せいか・・・・・?」
なんだそれは。せいか?
「違うわ。紫苑様よ。生きていらっしゃるわ。見なかったの?さっき。」
「・・・・・・・・・・誰だよ・・・・・・・。」
唇が震えてた。
何を聞いているんだろう今。とんでもない事が軽々とこの女の口からこぼれだしている。頭がおかしくなりそうだった。
「・・・・・・・・紫苑様も、若草様も、お二人のお子だったら霊血も守られていたはずだったのに、どうして何も言わなかったのかしら。子どものうちに清めて霊山で育てておかないと全ての霊孔が塞がっていくし、霊力も内側に閉ざされてしまうというのに。実際あなたこっちに戻ってきた時、霊感なんか無かったんでしょ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
音華はよろめいて一歩下がった。頭がこんがらがって、ぐちゃぐちゃだった。
エリカの姿はまだ見えない。明石の皮肉な微笑が見える。息が詰まっている。苦しい。
「むかつくのよ、あなた。」
心臓を撃った。
「なんにも知らないくせに、悠々としているのを見ると、いらいらするわ。誰でもそう思うわよ。別に僻みでもなんでもなく。芳河様がかわいそうに見えて仕方ないのは、当たり前のことじゃない?エリカ様がかわいそうだと思うのも、当たり前じゃない?」
二人の顔が頭に浮んで、そのまま張り付いた。
「若草様もね・・・、どうして死ぬ間際にこのことを露見したのかしら?あの人は唐突すぎるわ何事においても。周りの人間は振り回されてばかりだわ。もし腹の子が誰の子どもか、すぐに言っていたら、そのまま認められて紫苑様と結ばれていたでしょうに。お互いに霊血同士。」
音華はその場から走り出していた。別に打ちのめされたからじゃない。ただ、この、こいつの、この言葉をこれ以上聞いていられないと思った。これ以上乱されたら、頭が何も考えられなくなる。
―――まちがわんことよ。エリカ様だって、芳河様だってあんたさえおらんかったら、もっと楽やったんやで。
あぁ、そうだな。そうかもしれないな。
誰にも会いたくない。誰にも何も言われたくない。
幸せになれたんだろ。
幸せになれたんだろ、母さん。
なんで、なんで黙ってたんだ。
なんでだよ!
涙が出た。
音華は日が落ち切って、月が登るまで、一人あの篭りの蔵の裏の隅で隠れて座りこんでいた。
手や足先が痛むほどの寒さがひしひしと体を包んでいた。
だけど動きたくなかった。うずくまって、自分の息だけが温かいこの場所で、動かなかった。
なんだか笑えた。滑稽だな。そうだな。そうだ。あぁ。畜生。

「・・・・・・・・・・はぁ・・・・。」
一人でため息をつく。やっと解放された。芳河は一人酒を片手に庭に出て月を見上げた。綺麗な空だ。雲ひとつない。
少し歩いてみる。冷たくて澄んだ空気を頬にあてる。だけど、気付く。
「・・・音華。」
音華がそこに立っていた。俯いてこっちを見ない。そのまま、そこに立っていた。
「どうした、何処に行ってたんだ。エリカが探してたぞ。」
音華は答えなかった。
「・・・・・・?音華?」
芳河は一歩近寄った。
「音華、どうした。」
「芳河。」
音華の低い声が、ぼつりと呟かれた。
「・・・・音華?」
音華は突然くしゃっと前髪をかきあげてくしゃくしゃにする。口下が歪んでいるのが月明かりでかろうじて見えた。
「音華・・・どうした。何かあったのか・・――――」
もう一歩近づいて、体をこわばらせた。
音華が顔を上げて芳河を見た。
だけどその目は、もう泣いていた。
涙は落ちていなかったけれど、それを堪え切れなくて眉間にしわを寄せ、ただ睨むように、だけど絶望したような目で芳河を見上げた。
「・・・・・・・・・・・・・音・・・・――」
「なんで・・・・。」
音華の声は震えてた。
「なんで・・・・ずっと・・・・黙ってたんだ・・・・・。」
「・・・・・・・・音華・・・・・・・。」
「全部話せよ・・・・芳河。」
もう一度音華は俯いた。
「何で俺・・・・・っ。」
今度は涙を流して泣いているように見えた。
「何で俺・・・・、なんで・・・・・・っ。」
―――いっそ。
いっそ。他の人間のように、芳河がものすごく自分に敵意を持っていてくれればよかったのに。
そしたらもっと、容赦なく、嫌いになれる。楽になれる。失望できる。
なんで、心配する。なんで、俺に陰陽術を教える。なんで、何も言わない。
芳河をぶん殴ってやりたかった。拳に溢れる感情で、そのままその拳を振り下ろし、全てをぶつけてやりたかった。
芳河は黙って、音華を見ていた。手に持った酒をゆっくりと側にあった井戸の縁に置いた。
「・・・・・・悪かった・・・・・・・・。」
ぽつりと謝った。
音華は首を思いっきり振った。
「来い。」
ぐいっと手を引っ張られた。振り払えない。芳河の手はとても温かった。
芳河は音華の手の冷たさに驚いた。
「・・・・お前、いつから外にいた。」
「・・・・・・・・・・・・。」
ただ首を振った。
芳河はため息をついて一度手を解き、部屋に入ったかと思うとすぐに出てきて音華に羽織を掛けた。
「体を冷やすな。」
本当に、どうして、こう。
音華はますます俯いて拳を握った。だけどその拳ごと腕は引っ張られた。
連れてこられた場所はこの間音華が泊まった部屋の近くの部屋だった。
「ここなら行火もあるだろう。」
そう言って芳河は炭に火を付けた。
「・・・音華。」
音華の手を引いた。だけど今回は音華がその手を拒んだ。そして自分で火に当たった。
暫らく沈黙が続いた。それは重すぎるほどの沈黙。
「・・・・・・・・父親のことを、聞いたんだな。」
音華は頷いた。
「・・・・・・・・俺のこともか。」
頷く。
「そうか。」
その声はいつもより数倍落ち着いていて、重かった。
「隠してて・・・・・・悪かったな。」
「・・・・・・・・・・・。」
首を振りもしなかったし、頷きもしなかった。
「・・・・・・・俺の生家は、つまり実父の家は小さい寺だった。」
「・・・・・・・祖父さんのか・・・・。」
芳河は頷く。
「俺は、突然養子に出された。・・・養子として取られたと行ったほうが正しいが、紫苑家の嫡子として、この陰陽門に来た。紫苑家の裏陰陽寮の仕事は誰にでもできることじゃないし、核人の・・・つまり義父の奥方は随分若い時に死んだらしい。俺は、どこから漏れたかは知らないが、祖父の真似事をして霊の調伏や封印を幼い頃からしていたことで見初められたらしい。」
音華はかがみこんだ。芳河もゆっくりと腰をおろす。火が顔を火照らせる。
「その、紫苑の核人が・・・お前の実父だ。」
音華はますます身を縮める。寒いからではなく。
「なぜずっと隠していたのかは知らないが・・・若草様は死ぬ間際になって、そのことを告白した。」
「・・・・・・・・・・・・・。どうして・・・・・・言わなかったんだ・・・・。」
「分からない。」
芳河は首を振る。
「最高位の霊血を保持したお前を、やすやすと下界に捨てるのも偲びない。・・・それで突然、お前は此処に連れ戻されたんだ。」
音華は顔をしかめる。
お前は?お前は・・・その時。どう思ったんだ?
「・・・だからなのか?」
唇が震えた。
「だから・・・お前が、俺の師匠に、させられたのか?」
「・・・あぁ。」
頷いた。
「なんで・・・・。」
苦しかった。
「若草殿もいない、紫苑様も滅多と外には出られない身だ。だったらじゃあ、誰が音華を陰陽師に仕立て上げるか、そうなった時に、若草殿とも懇意で、紫苑様の養子である俺が、最も適切だと判断したんだろう。」
「・・・・誰が・・・っ。」
「姫様が。」
峰寿のことを思い出す。
「なんで・・・っ。」
音華は俯いた。
「なんで・・・・っ・・・・だって、芳河・・・っ・・・・。」
お前、そんなの嫌だったに決まってるだろ。
そんな、後からのこのこやってきた本当の娘みたいなやつの、面倒を見るなんて。
芳河ほど、真剣に、シビアすぎるほど陰陽道に向きあっている人間はいない。
プライドも、覚悟も、全部、ひどい衝撃を受けたに決まってる。
半ば無理矢理に連れてこられて、養子にされて、陰陽師になるって決めて、裏陰陽寮をつぐって決めて、それで、突然だぞ。
嫌だったに決まってるじゃないか。
裏切られた気がしたに決まってるじゃないか。
「音華。」
「なんだよ!」
怒鳴ってしまった。
「お前が、気に止むことじゃない。」
顔を上げた。思いっきり。
「なんでだよ!」
胸倉を掴んだ。手が震えてる。
「なんでだよ!憎んだだろ!疎ましかっただろ!」
芳河は黙り込んだ。だけどじっと音華の目を見てた。
音華の目からは今にも涙が溢れそうだが、こちらを確実に睨んでくる。
・・・衝撃ではあった。確かに、若草様の告白は、自分の体を貫いて、そして胸を打った。それは鈍く、重い打撃だった。
こんな人の子どもに生まれたかった。本当にこの人の子どもであったらよかったのに。
何度もそう思った。優しく撫でてくれるあの人が、心底好きだった。
そうじゃないと分かっているのに、どうしても幼い頭は、実の家に捨てられたんだと考えてしまう。
養父とは、殆んど会うことはない。
ただ、ただ自分がしなければならない事が目の前にずらりと並べられ、それをこなしていく事が義務だった。
その苦しみを、和らげて救ってくれたのは、紛れもなく若草様だった。
その若草様に、突然裏切られた気がした。
自分を見つめていた眼は、自分を通して、あの養父を見ていたんだと悟った。
同時に、義父を憎んだ。
若草様がずっと泣いていた。その理由が分かった。
音華を捨てなくてはならなかったことで、死ぬほど自分を責めていた。なのに父は何もしなかった。
自分が父親だと名乗れば、それで済んだはずだった。
自分が、此処に養子に来るような事もなかったかもしれない。音華が紫苑を継ぐことになっていたかも知れない。
今更・・・。
そういう気持ちが、今まで自分を貫いてきていた太い芯のような覚悟を打ち砕こうとしていた。
陰陽道に生きることを誓ったこと、その全て、意味があったんだろうか。そういう気にさせられた。
その娘を、音華を、さらに、陰陽師として育てるように言われた。
胸が詰まった。
自分はまだ何も、頭の中が整理できていない。だけど、逆らえない。ただ、一番縁が深く、能力があるからということで決められた。
そんな、皮肉な事があるだろうか。そう思った。
音華は突然掴んでいた襟を放した。それは無気力に。そして、下を向いた。
「糞莫迦・・・・っ!」
「音華・・・。」
音華は泣いていた。今度は確実に。涙が落ちるのが見えた。
芳河は目を閉じて。沈黙した。
この時、自分にどうすることができただろうか。
素直に抱き締めることも、できなかった。


On*** 37 終わり



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