熱いのに、悪寒。蝉の声が、消えている。

シャン!
「止めろ・・・・。」
「チルカツリカ・・・・。」
そう呟いて芳河は一歩、近づいた。
音華の背筋を流れる汗。尋常な量ではなかった。
「・・・対価・・・そういうのならば、対価を払えば、元の場所へ帰っていただけるのですね。」
「・・・・。」
ぎょろんぎょろと目玉が動いた。
「下賤の霊のようにただ魂を欲するようなことはありますまい。何で払えましょう。」
もう一歩近づく。それはとても慎重に。小さな声で詠唱をしている。それはまるで気付かれないように。
「その人間。」
音華はギクッとした。
「その人間の、その親の指。」
音華はとっさに親指を握り締めて隠した。芳河は、ゆっくりと振り向いた。その時、体をずらせて、歩幅的にはまた一歩近寄った。
「・・・・・・・・・それで、帰る、と?」
「両の手だ。」
芳河はまた小さく口を開いて、聞こえないような詠唱を続けた。そしてゆっくりと音華に近寄った。
それはそれは、ゆっくりと。音華は体をこわばらせた。まさか、芳河が本当に自分の親指を切り落とすとは思えない。
だけど、芳河が今何をしているのかも全くわからない。
芳河は音華が座っているところまで来ると、手に握っている棒を畳に一度つきたてた。
シャン!
またなる。
「チルカ。」
芳河が一度ソイツのほうに振り向いてそう言った。
音華が、芳河をおそるおそる見上げた。芳河の首筋に汗が流れている。涼しい顔をしているのに。
芳河は音華の前にかがんだ。音華は反射的に拒む。
「・・・・・・・・持っていろ。」
渡されたのは、赤い色の身代わり人形。
「・・・・・・・・・・・・・。」
何も言う事が出来ない。芳河はまた立ち上がり、間の花が活けてある所へ行き、鋏と、活けてある赤い華をとった。
詠唱は続けている。ゆっくりと音華の元へ戻ってきて眼の前に座った。
音華の額には汗が滲んでいる。芳河は息を吸った。
音華を隠すように芳河が座っているので向こうにはこっちの手先は全く見えない。
「声を出すなよ。それから俺が、切り落とすまで息を吸うな。」
「・・・・・・・・・・・・っ切るって・・・・。」
「それをしっかり持ってろ。」
赤い紙。音華頷いた。一滴の汗が落ちた。
芳河は手に持つ赤い華の花弁を1つちぎって、口元に持っていき息を吹きかけた。そして音華のもつ赤い紙に重ねた。
「離すなよ。」
音華の手をとり、しっかりと持たす。
「このまま動くな。」
頷く。
「よし。」
芳河が立ち上がる。
「止めろ。」
音華息を思いっきり吸い込んで、止めた。
芳河は振り向き、なにかまた詠唱をしながら2歩、3歩近づいた。手には鋏と赤い華。
「・・・・・・・・・御身に、捧げましょう。」
バチン!
結構な音がして、切り落とされた。ボトン、と赤い華が落ちた。畳に落ちた。そして砕けた。
まるで赤い血が其処に散らばったかのようだった。
ギョロっと眼が動いた。それはまるで喜んでいるかのように、ぎょろぎょろと動いた。
音華は、もう息を吸ってもいいのか、悪いのか解からずに息を止め続けた。
「対価は払われました。御身を山にお納めください。」
黒い煙がまた、アイツから出た。
「しかし、困った。・・・・この人間から離れる事が出来ぬ。」
「・・・・・深く食い込みすぎたのでしょう。」
その眼は笑っていた。真ん丸い大きな眼。眼に見える変化は見受けられないが、絶対に笑った。
芳河が一歩近づいた。
シャン!
「・・・止めろ・・・・・。」
不愉快そうな声を出した。
「人間ごとき下の物から放れることができなくなった哀れな貴殿のために、私がその御身、剥がして差し上げましょう。」
「・・・・なに?」
シャン!
また鳴らす。芳河は詠唱を。今度は、聞こえる声で。
「止めろ!」
「えぇ。あと一度です。」
芳河が、上目でそいつを見据えた。瞬間。
「オン!」
シャン!
畳につき立てた。あの棒が、鳴った。その音と共に、ぶわっと空気が色を変えた。
そしていくつかの蒼い霧が、床から勢いよく吹き出したと思うと、美しい閃光が、点描を描き、風が吹き出した。
屋内ではありえない風速で。渦巻く。
「おおおおおおおおおおおお・・・っ」
悲痛な声がして、あいつの頭がぶるぶると震えだした。恐ろしい声と画だ。息を止めることも忘れた。
べり、べりと、彼女の頭を覆っていた何か得体の知れないソレは剥がれだした。
あの目玉も、剥がれていく。音華は声が出せなかった。汗がでるのが分かるだけ。
芳河はまだ何かをぶつぶつ言っていた。時折。「オン」と言う言葉が響く。その度に、新しい欠片が剥がれ落ちる。
「ああああああああ・・・・!」
「山は我々が清めに行きます。それが終わり次第、どうぞ、お戻りください。」
芳河がいけしゃあしゃあと言った。明らかに眼前にいるソレは苦しんでいるのに。
芳河はもう一度、棒を鳴らした。
シャン!
「オン!」
ボン!
音がして、辺りが夏の音に変わった。
音華は一瞬目をつむったその間に全てが元の通りになっていることに気がついた。
目の前に立つ芳河。その先に、倒れる、女。初めて見る女。
「・・・・・・・・・・・・・・・。」
まだ喋っていいかも分からないので、音華は黙って二人を見つめていた。
芳河が振り向いた。
「・・・・・・・・・・・どうした、声が出ないのか。」
「・・・出るよ。」
出してよかったらしい。ふと、握っていた赤い紙人形をみつめた。赤い花びらと共に真っ二つに切れていた。
親指はしっかり音華の手についている。
「・・・・・・・・あの人。」
意識を失っているらしい。芳河は近寄って、ゆすって起こした。
「・・・・大丈夫ですか。」
彼女は何があったのか解からないらしく、動揺していたが、今お払いが終わったと聞いて泣きだした。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
音華はなんとも言えなくて、その光景を黙って見てた。
彼女は何度もありがとうと言った。
「・・・あ・・・・・・・それで・・・・・・私は・・・・何をしたらいけないんでしょうか?」
思い出したように彼女は言った。
「ひとつに、家族に会わないこと。」
「・・・・は・・・はい。」
「もうひとつは。決して、自分の名前を言わないこと。」
「・・・・・・・・・・・はい。」
「とりわけ、二つ目は絶対に破らないで下さい。」
「破るとどうなるんですか・・・?」
「あの神は、今度こそあなたを連れていってしまうでしょう。」
「・・・何処に。」
「あの山に。魂を。」
ごくんと、飲み込む。喉が動く。
「名前は、神の道具。神に名前を握られることは、すなわち、身を捧げるも同じことです。」
「・・・わ・・・・・わかりました。ありがとう・・ございました。」
彼女は頭を深く下げた。涙が落ちたの見た。
そしてカバンから結構な大金を取り出して、渡した。
「・・・・・・・・ところで。あなたの友人が、あなたと分かれてから一度彼女の恋人に電話をかけたと言っていましたね。」
彼女は顔をバッと上げて、はい。と頷いた。緊張が走っているのが分かる。
「風の音がする、という。」
「はい。」
「あなたは、彼女がいなくなってから、携帯に電話をかけましたか?」
「・・・・・・・・・・・・。・・・・・・はい。」
彼女の顔が青くなったのが分かった。
「そうですか。」
芳河は頷いて立ち上がった。彼女を立たせてあげた。
「一週間後には、あの神の再封じも終わります。あの神はあなたを探しています。くれぐれも名前だけは口にしないで下さい。」
「・・・はい・・・っ。」
彼女の頬を伝った汗は、熱さのためだからだろうか。
彼女を見送って、もう一度若草の間へ、芳河は戻ってきた。その間、音華はずっと独りでそこに座っていた。
芳河を待っていた間、息を吸い込んでは深く吐いた。散らばった赤い華を見る。
良かったんだろうか。と思う。おそらくあの彼女を殺したのは、あの依頼人だ。眼を閉じる。
「まだ動けないのか。」
「動けるよ。」
今日は体に何も残っていないらしい。
「・・・・・・・芳河、あの・・・・、あの人の霊、連れてきたんだよな?此処に。」
「あぁ。ついてきたな。」
「・・・払ったのか?」
「あぁ。直に遂げられる。」
「進行中?」
芳河は頷いた。そして音華を起こす。音華は出された手は取らずに立ち上がった。
「あの人は、・・・消されちゃうのか?」
「いや、あの場所に埋まっていたために遊霊になりかけていたが、間に合った。死神が真魂を回収して、無事に転生するだろう。」
また、訳の分からないことを。音華は完全には理解できないものの、そうか、と呟いた。
「多少は、罰を受けるだろうが。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・罰?」
芳河は歩きだした。答える気がないらしい。
「身を清めるぞ。」
「へ?」
「あの瘴気に中てられてたからな。」
まぁいいですけど。ものすごく汗もかいたし。

「・・・・・・・・・・・・・っ。」
彼女は、タクシーの中で堅く目をつむっていた。
助かったんだ。助かったんだ。心の中で繰り返し呟く。
大丈夫、大丈夫だ。全てうまくいってる。大丈夫。
「大丈夫ですか?」
運転手が、話しかけた。ばっと顔を上げる。
「すごく顔色が悪いですよ。」
「・・・・あ・・・いえ、少し、体調が悪いだけです。」
笑った笑顔は引きつっていた。運転手は、此処で吐かれたらたまんないな、と思ったでけですぐに黙り車を進めた。
彼女は、もう一度手を堅く結んで眼を閉じた。
ピルルルルルルルル・・・・――――・・・
携帯のベルが鳴った。鳴り続ける。古い感じの、着信音。運転手のものだろう。彼女は無視してそのまま心を静めることに専念していた。
ピルルルル・・・・
運転手は出ない。せめて音を切ればいいのに。耳障りで目を開けて、バックミラーを見た。
「出ないんですか?」
運転手が、不思議そうな顔をして尋ねた。
「え?」
「鳴ってますよ?」
「・・・・・え?」
カバンを見る。確かに、音は、此処から出ている。
だけど、この着信音、身に覚えがない。黒いバックの口を開け、中を探ってみた。
しつこく鳴り続けるベル。知らない音。
手に取ってぎょっとした。
手に当たっている、鳴り響いている、黒い携帯電話。これは、自分の物ではない。汗が吹き出た。
彼女のものだ。手が震えた。震えた。そしてディスプレイに映る着信相手は自分。
自分の携帯はカバンの中に見当たらない。誰か拾った人間が、かけている。
携帯電話はまずい。誰かに拾われたのならば、それは、取り返さなければならないものだ。
だけど、この携帯は。彼女のものだ。あれから随分たっている。
バッテリーが持っているはずのない、本来なら死んでいるはずの携帯だ。
これは、なんだ。今、何が起こってる?
「・・・・・・・っ・・・・。」
彼女は震えた。
「お客さん?出ないんですか?」
うっとうしそうに運転手が言った。
「あ・・・いえ・・。」
ピッ・・・。震える手でとっさに押してしまったボタン。着信、通話のカウントがディスプレイに映る。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
彼女は吹き出す汗で、滑りそうになりながら、携帯電話をカバンから取り出して、おそるおそる、耳に近づけた。
「・・・・・・・・・・も・・・・・・もしもし・・・・。」
何も言わない。ただ、風の音が、耳を抜けていく。悪寒がしてならなかった。
「・・・・・・・・・・・・だ、誰ですか?」
風。震える。恐怖。
「誰・・・?何処からかけてるの・・・?」
風。風。
「その・・・・携帯・・・私のものなんですけど・・・・・・・・か・・・返してください。」
風。
「・・・・・・・・・誰なの?」
涙が出そうだ。
「・・・・美奈子・・・・?」
震える声で、勇気を搾り出して問うてみた。
風。雑音。
「・・・・みな・・・・―――」
「あなた、誰?」
全身が凍った。突然声が吹き込まれた。と、別の音が強くなった。風の音?違う。
この音、この音は、何かが擦れる音。不自然なリズムが続く。
これは、土を、掘る、一定のリズム。あの時、聴いていた、あの時のリズム。砂が擦れる音。
「・・・・私は・・・・。」
「あなた、誰?」
繰り返す。この声は、あの子のもの?こんな声だっただろうか。後ろで鳴る、砂の音。風の音。
「この携帯、あなたのもの?この番号、美奈子ってかいてあるけど、・・・・あなた、名前は?」
はっとした。ほっとした。やっぱりコレは、拾ってくれた人間が着信履歴を追ってかけてくれたんだ。
「私は、岡路かなです。あの・・・その携帯・・・・―――」


その日の昼食は、なぜかうどんだった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・うどんだ。」
まだ髪の毛が濡れたまま。
いい匂いがする。紛うことなくこれはきつねうどんだ。此処ででる精進料理の類ではない。
ちらりと眼の前に静かに座る芳河を見る。
芳河は箸を手に取り、うどんの丼からうどんをつまみ上げる。
「・・・・・・・・・・・・。」
音華はじっと自分の箸を見つめる。うどんを見つめる。
「なんだ、食べないのか。」
「・・・た、食べるけど。初めてみたから・・・・。此処で、うどん。」
「好物なんだろう?」
芳河を見つめた。芳河は黙々と食べている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あぁ。」
芳河が頼んでくれたのだと、悟った。音華は箸をとり、いただきますと言って、うどんをつまみ上げた。
美味しかった。
あの定職屋には及ばなかったけど。
「うまい。」
「・・・あぁ。」

次の日の新聞で、タクシーの中で突然、植物人間状態になった女の記事が載っていた。


On*** 17 終わり



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