突如、初めての体験はやってくる

「はー・・・・・・・・・・・。」
音華はボーっとしていた。母親の墓の前で。秋の温かい日の日向ぼっこだ。
埃まみれになりながらも小さな崖をよじ登り、そこで一人ボーっとしているのが最近好きだった。
いい天気だ。秋晴れだ。運動会とかにぴったりだ。
そういえば高校にも体育祭とかいうものがあったな。去年はサボって出なかったが。
そうだ、この12月は修学旅行なんて物もあった。北海道だった気がする。あれ、沖縄か?
学校の事を考えるとなんでか心が馳せた。ダブリ決定だな。この欠席日数じゃ。そう確信した最近。
もう、戻れないことを確信した最近。なんだか苛立つような。でも此処に来て、間違いではなかったような。そんなジレンマ。
どちらにも答えがないような気がした。
音華は体育座りで空を仰いでいた。雷艶の言っていた、直に分かると言う言並びも全くわからないままだ。
芳河のスパルタは順調に継続中。最近早朝の身清めが大嫌いです。かしこ。
「いけね。寝そうだ。」
ぽかぽかしすぎて思考がどっか違う方向へ走っていく。ごそっと峰寿から貰った煙草を取り出して見る。そしてマッチで火を付けてふかす。
久しぶりのマルボロ。蒼い空へ浮かんで行く白い煙。なんとなく美しかった。赤とんぼがかわいらしく飛んでいる。赤が映える。
「・・・・・・・・・・母親の墓前で煙草吸ってるって、親不幸かな。」
ちらりと墓石を見つめて見る。枯れてしまった花がまだ竹の中に残っている。
じりっと、土の上で煙草を消してふっとため息をついた。そして竹の中の枯れた花を取り出してぽいっと捨てる。
「花、なんか持ってくりゃよかった。」
もっとましな、もっとしっかりしたものを。

「よっと。」
ざざっと、崖を滑り降り、音華は着地した。よし、誰にも見られてはいない。
さて、今度は何処に行こう。ちょっとした暇を見つけては音華はそう思った。秋のこの天気が好きだった。
音華は廊下を歩き、そして日辺りのいい、人の通らなさそうなところを見つけてまた座りこんだ。埃まみれの袴を叩く。
「いい天気だなぁ。」
ばばくさいだろうか。目を閉じる。風を感じる。前髪をサラサラと揺らす。秋風が好きだった。
芳河は何してるかな。なんかしないといけない事があるとか言ってたな。
それが長引いて、このままなんの呼び出しもなくぼーっと出来たらなぁ。とかなんとか考えていた。
不意に影が顔に掛かる。
「・・・・・・。」
音華は目を開けた。
「・・・・・芳河。」
芳河が目の前に立っていた。無言だ。
あ、畜生。もう事を済ませやがったな。でも抗ってみる。
「んだよ、今はちょっと休憩だろ。」
言い切った時に身体がこわばった。
目の前にかがんだ芳河の指が音華の顎に触れて、持ち上げる。
「ちょ・・・―――」
言いかけたのも、無駄に終わる。
絶句。
言葉がでるなら、それは雷艶を呼ぶ言並びかもしれない。
一人残された。秋風。秋風。前髪。
身体が固まって、動かない。なんだこれは。金縛りか?あらたな術ですか。
我に帰った瞬間に音華は立ち上がり、走り出した。それはもう、猪の如く。

「芳河ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!!」
スッパーン!
芳河の部屋の障子がものすごい音と共に開く。
「なんだ阿呆。障子はもっと丁寧に開けろ。」
芳河が机に向かって何かを書きながら言った。
「てめぇ!今すぐぶっ殺す!」
掴みかからん勢い。
「なんでお前に殺されなきゃならん。」
「訳なら、自分に聞け!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?」
芳河が、怪訝な顔で音華を見あげた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。あぁ。お前。」
音華の顔を見て、悟ったかのように言った。
「キスされただろう。」
ブチン。
「やっぱりてめぇなんじゃねぇかああああああああ!!!!」
「落ち着け阿呆。」
「埋める!今すぐ埋める!さもなくば、落とす!!」
我を忘れています。
「うあ。何、なんの騒ぎ?」
エリカがひょいっと顔をのぞかせた。
「エリカ。この阿呆をなんとかしろ。」
「れ、紫の上ご乱心?なに、明石の君でも連れて帰った?」
「峰寿、お前もいるなら止めろ。」
今にもぶん殴らん勢いの音華を峰寿は捕まえてなだめた。
「おおよしよし、音華ちゃん。気にするな、源氏は紫の上が一番好きだよ。誰の目から見ても一目瞭然でしょう。」
「離せ峰寿!誰が紫の上か!俺は源氏が嫌いって言ってんだろが!」
暴れる音華にエリカはただひたすら驚いた。
「何したの芳ちゃん?こんな風に怒った音華ちゃん初めて見たよ。」
「俺は何もしてない。」
「いででで、髪の毛引っ張らないで!はげる!どうしたの音華ちゃんまじで!」
まるで野生の猿のようだ。
「吸魂鬼だ。」
「は?・・・いで!ぬけた!ぬけましたよ!今髪の毛――――!!!」
暫らくどたばた暴れまわりました。

ぷっくーっと膨れ上がり、まるで河豚のような顔をした音華がそっぽを向いて座っていた。
「で、なーんで吸魂鬼が此処に居るんだよ?」
「知らん。だが、たまに出る。この山は。」
「私も見たことあるよー。結構多いの。神無月は特に。確かに魂を抜かれちゃうけど、それって、たいした量じゃないんだよね。ちょっと疲労する程度。だから放置してるんだけど。」
峰寿が髪の毛を抑えながら問う。
「敷居またいでまでくんのか?」
「来るんじゃない?ありえるデショ。」
二人はちらっとそっぽを向いて座る音華の背中を見た。
「あの口寄せ体質だからねぇ。」
「真っ先に狙われたってことか。」
何故か、ヒソヒソ声になる。
芳河はさっき音華が暴れてこぼれた墨をトントンと拭いていた。
「で・・・・。」
ちらりと二人は芳河を見る。
「芳河の姿で見事に襲われたってことか。」
「そうみたいだねぇ。」
沈黙。・・・。
ぶー!吹き出す。笑いを堪えているが、堪えられないらしい。肩をひくつかせ二人は床に倒れた。
しばきあげたいです。いいですか神様。
「と言うわけだ。音華。俺に非はない。」
「やかましい!」
すんごく腹立たしいんですけど。
「あははははは!ちょ・・・くるしい!苦しいんですけど!」
峰寿が堪えきれなくなって爆笑を始めた。
「だめ・・・峰寿・・・!笑っちゃ・・・・!かわいそうだよ!」
エリカは必死で堪えているが、もはや限界が来そうだ。
しばこう。そうだ。神様は全部出雲にいるんだ。誰も見ちゃいない。やっちまおう。
「でもじゃあなんで芳河なんだよ!」
「音華ちゃん、その時芳ちゃんの事考えてたでしょうっ。」
エリカが堪えながら言った。
「・・・・・・・・・・。」
考えて見る。
確かに。
「あぁ。」
「だからだよーっ。」
「吸魂鬼が心の鏡だからねぇーっ。」
峰寿が言う。
「どうせろくでもない事を考えてたんだろう。」
その通りですが。
「いや!わからんぜよ芳河!もしかしたら恋焦がれていたのかも!」
「ありえねぇ。」
音華が言い切る。
「あー・・・くるしーっ・・・!」
エリカがやっとこさ立ち上がった。そして音華の横にちょこんと座る。
「ほらほら、誤解もとけました。芳ちゃんじゃないよ。大丈夫。」
よしよしと音華を撫でる。
「なに、音華ちゃん。そんなに気にすることないよ。誰しもが被害にあいうるんだから。」
峰寿も駆け寄ってなでる。
「もしかして、ファーストキスだった?」
峰寿がそう言った瞬間に空気が凍りついた。
「・・・・・・・・・・・・峰寿。」
エリカが峰寿を見る。それは言ってはならない言葉でしょう。眼が訴える。
空気がどんどん重くなる。
「・・・・・・・・・そうだ。」
どんよりとした声が出た。
「最低だ。・・・・俺。初めての相手。・・・・・幽霊だなんて・・・・・・・・。」
「・・・・お・・・音華ちゃん。ごめ・・・きに・・・気にしないほうがいいよ!うん!ノーカンノーカンだよ!」
「終わってる。とことん終わってる。しかも、無理矢理。しかも芳河。しかも鬼!」
あああああ、エリカが手におえないことを悟ったらしく、ずるっと一歩下がった。
「コロス!」
がばぁっと立ち上がった。
「オン!」
ばしー!芳河の子鬼が飛んできた。
「で!」
「落ち着け。俺じゃないと言ってるだろう。」
「とりあえずこの辱め!てめぇではらす!」
やけくそだ。
芳河は続けて「オン!」といって子鬼を飛ばす。
「シュカ!」
ボっ!子鬼、相殺。
「おお!すごい音華ちゃん。」
峰寿が感心する。伊達に毎日芳河の鬼修行うけてません。
しばらく子鬼の飛ばしあいが繰り広げられ、つかれきった音華はそのままダウンしてしまった。
終いには芳河も息を荒げていた。
「す・すごい・・・音華ちゃん。芳ちゃんの千本ノックほぼ全部受けたよ。」
エリカが息を呑んだ。
「芳河も息あがってるぞ。」
「阿呆が・・・っ。」
どさっと芳河はその場に座りこんだ。
「あはは・・・・。でも芳ちゃん。こりゃちょっと考えどころかもよ?」
「なにがだ。」
声は疲労感を含んで重かった。
「だって、鬼が実質この寺の中に入ってきちゃってるんだもん。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・。そうだな。」
「私たちはいいよ。影響ないから。でも、ほら。音華ちゃんは無条件で惹きつけちゃうからさ。」
「・・・・・あぁ。」
分かっていた。分かっていて、最初、音華が来た時、一人部屋に放置し脅しとして鬼を使った。
入ってきている場所は分かっている。唯一、隔てる何かが無い所だ。
「・・・・だが。」
「・・・・・・・・だねぇ。」
エリカもうーんと唸った。
「え?なに?」
峰寿だけが分からないらしく、目を丸くしていた。

朝。
「音華。」
ギロ。
「・・・何をしている。来い。行くぞ。」
溢れだす殺気は、芳河に刺さる。それはまるで毛を逆立てた猫のようだ。
「俺じゃないと言っているだろう。」
歩きながら芳河は呟いた。
「じゃなくてもコロス!」
ため息をついた。何を言っても無駄らしい。
「お前、何考えてたんだ。吸魂鬼が来たとき。」
「あぁ!?」
「俺のこと考えてたんだろう。」
「うぬぼれんなよ源氏!」
「うぬぼれてない。源氏でもない。」
音華が舌打ちをした。
「お前がぐずぐず事に追われて休憩が長引きゃいいなって思ってただけだ!」
「・・・・・・・・ろくでもない。」
うるせぇ!
「あんな不意打ちで、突然こられちゃ蹴り飛ばせねぇだろうが!今考えても腹が立つ!次があるなら絶対蹴り上げる!」
「お前を襲おうとする阿呆がいたとしたら、そいつの方がかわいそうだな。」
「んですか、喧嘩売ってますか。」
「お前だろう。大安売りしているのは。」
バシャン!
水に入る。冷たい。そろそろ限界で冷たい。
「集中しろ。」
「してる!」
してないだろう。

「さささささむいいいいい。」
がちがち震えながら音華が言った。
「よく拭けよ。風邪をひくな。」
言われなくても。
「芳河ぁぁぁぁぁー――!!!!!」
どすん!峰寿が走ってきて思いっきり芳河に抱きついた。
「やめろ。気持ち悪い。なんだ峰寿!」
芳河が引き剥がしながら言った。
「今すぐに何とかして!鬼が入ってくる原因なんとかして!」
「なんの泣き言だ!やめろ、離せ。」
半泣きだ。
「・・・・・・・・・・・峰寿。お前、お前まさか。」
音華が呆れたような目線を向けながら言った。
「ひどい!お嫁にいけない!なんでよりにもよって、よりにもよって・・・・」
「誰だったんだ?」
「なんで煙草屋のおっさんなんだよぉぉーーーー!!!」
マジで泣き出さん勢いだった。
「よかったな。」
「よくねぇだろ!お前!せめて、せめて上戸彩とかさぁ!」
「中学生かお前は。」
「最低でもお前との方がましだったっつーのぉぉぉ!」
「俺が不愉快だ。」
ぶーっと音華は吹き出した。
「想像するな。」
「なによ!音華ちゃんは!いいじゃんか、まだ!源氏とで!」
「んだと峰寿もういっぺん言ってみろ!これ以上ない屈辱なんですけど!」
音華も切れる。
「やめろ二人とも。エリカ!ちょっとこいつら何とかしろ!」
エリカの姿を見て芳河が呼んだ。
「うわ。なに、これなに?」
エリカが慌てて峰寿を芳河から引きはがす。
「峰寿!なに芳ちゃんに欲情してるの!若紫の眼前だよ!」
「うわーん!エリカ聞いてくれ!」
今度はエリカに泣きついた。騒がしい男だ。
「どうしたの芳ちゃん。この有様。」
「峰寿も被害にあったらしい。」
「へぇ!?」
エリカが吹き出しそうなのを堪えていた。
「で・・・・?誰だったの?」
「煙草屋のオヤジ。」
音華が言ってやった。
エリカは、ものすごく堪えがたい顔をした。
「そ・・・そうかぁ、峰寿。元気出して。よかったじゃない。人間で。」
「どういう意味ッ?!」
「でもなんで煙草屋のオヤジなんだよ。」
音華が訊く。
「煙草買いにいこうとしてた矢先だったんだろう。」
「あー。峰寿!禁煙っていったじゃん!」
エリカが今度は峰寿を叱る。
「エリカの部屋だけだろーっ!」
しっちゃかめっちゃかになって、芳河はため息をついた。

「そうか。」
「えぇ。」
芳河が婆やの前に座り。ゆっくりと熱いお茶を飲んだ。
「音華はともかく、峰寿まで被害にあうとはな。」
「・・・あいつも、音華級の口寄せ体質ですからね。」
「せやったな。忘れとった。いつぞや大変なときがあったな。」
婆やは懐かしそうな目をして、煙管を口からはなし、ふうっと煙を浮ばせた。
「姫様に言ってみよう。」
「しかし、原因は明白でしょう。」
「あぁ。明白や。」
婆やは目をつむった。
「かといって、・・・簡単に埋められる穴でもない。」
「・・・えぇ。」
「姫様が、あの場所を選ばれたからのぅ。」
「その理由。」
芳河が茶のみを抱えあげて、呟いた。
「俺はよく知らないんですが。」
「わしにもようわからん。姫様のおっしゃることに従っただけや。もしかしたら、遺言やったんかも知らん。」
芳河はずっとお茶を飲み干した。熱い、熱い緑茶だった。

「芳河。」
音華がめちゃくちゃいやいや芳河の元にやってきた。珍しいことだった。
「なんだ?」
「ちょっと疲れただけだ。休ませろ。」
「此処でか?」
意外な事、この上ない。
「俺の部屋はもう、俺の部屋じゃねぇ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・そうか。」
おそらくエリカと峰寿が一緒に来たのだろう。界酒片手に。
「あー・・・疲れたっ!」
月がぽかんと出ていた。音華が障子を開けるまでそれが満月だとは気がつかなかった。
音華は座りこんだ。芳河は黙ったまま手に持っていた本をまた読み始めた。
沈黙。おもっくるしい沈黙。少なくとも音華にとっては。
芳河ではなかったと分かっているし、別にもう蹴りかかろうとも思わない。
それとは別の、なんだかむずがゆいような、気持ちの悪い衝動が体を這っていた。なんだこれは。
相変わらず何にも興味はありません。陰陽のこと以外は。って顔がムカツク。読んでる本だって、見たことのないものだが、結局そういう本だろう。
「あぁそっか。」
音華は呟いた。
こいつの顔色一つ変えない態度が、癇に障るんだ。
こっちが百でかかっても、やつは零に等しいもので返してくる。そんな気がするんだきっと。
それでいて、まったく敵わない。負けている、とか、そういうじりっと焼け付く焦燥はない。
でも敵わないと分かっている。圧倒的にあるこの道の上での力の差もその一つ。逆立ちしても、こいつの陰陽術には敵わない。
敵おうとも思っちゃいなかった分野だった。どうでもいいことだった。できなくたって生きていける。背をむけたって.。
そりゃ鬼に取り付かれちゃたまったもんじゃないので義務と化しているが、でも捨て去ってもいいものだ。
だけどなんだか、なんだかじんわりと、腹が立つのだ。
それと同じように、俺があんだけ動じたことに対して、零の態度が、じんわりと腹立たしいんだ。
「なにがだ。」
芳河がふっと顔を上げて音華を見た。
「へ?」
「今、何か言っただろう。」
「・・・・・・・・・・・?」
「・・・阿呆が。」
「んだとぉ!?」
逆立つ毛。
「・・・なぁ芳河。」
「なんだ。」
「お前、キスしたことあるんだろ。」
沈黙。重たい沈黙。少なくとも、音華にとってはとても。
訊いてからすごく恥ずかしくなってきた。早く答えろ。その零の返答はきつい。
「くだらない事を聞くな。阿呆。」
またふっと、芳河は本に目を戻す。
「あぁ阿呆ですよ!ボケ!」
音華もそっぽを向いてばたっと倒れた。
「寝るなよ。」
「寝ません!源氏の部屋なんかで!」
「・・・その源氏はやめろ。」
音華は舌打ちで返す。
「源氏にとっちゃキスの一つもたいしたことじゃございませんよね。へぇいへぇい。」
ぶつぶつとこぼして見る。愚痴だ。おもったよりもショックだったのだろうか。
こんなに引きずるのは、自分でも珍しい。
「なんだ、そんなにショックだったのか。」
芳河が静かに言った。
「お前みたいに動じないでいられるほど木瓜じゃないんで!いいよな!お前は人よりも数倍神経が鈍感で!」
沈黙。なんだよ、また、零か。
音華は目をつむった。あぁ、なんかすごく疲れた。
よく考えたら吸魂鬼に若干魂を引き抜かれた上で芳河の千本ノックを受け、あれだけ暴れて、峰寿とエリカの相手も弱冠して、界酒も飲んでたら、疲れてて当然だ。
沈黙を聞きながら、音華は畜生と心の奥で漏らした。
「俺も動じる。」
「は?」
いきなり、返答がかえってきた。
音華が、ぐるんと体を転がし芳河を見た。
「俺だって、動じるときはある。」
「・・・・・・。はっ。そりゃ、その瞬間がみてみてぇよ。」
芳河はそれ以上何も言い返して来なかった。音華はまた芳河に背を向けて、目を閉じて沈黙をきいていた。

いつのまにか、寝ていたらしい。
「うわあ!」
音華は思いっきり起き上がった。しまった!しまった!寝てしまった!芳河の部屋で!
いかがな嫌味を投げつけられるか、しれたもんじゃない。ばっと横を見る。芳河の布団はなかった。外を見るとまだ外は真っ暗だった。
「何時だ・・・?」
時計を探してみる。夜目がきく。時刻は3時半。音華は肩を抱いてぶるっと身震いをした。寒い。布団の上ではなく畳の上に直接寝ていた。
芳河の羽織がかぶせてあったとは言え、からだは冷えていた。その芳河は何処にもいない。音華は起き上がった。
そしてそろりと脚を忍ばして障子を開けた。芳河はいない。何処に行ったんだろう。
音華は冷え込んだ真夜中の空気で白い息をこぼしながら廊下をわたった。時々軋む床の音でどきりとした。何処にもいない。
どこだ?便所か?庭に出て見た。瀧のほうへ。誰もいない。綺麗な満月が水をてらしていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・さむ。」
帰ろう。そう思った。あいつがどこにいってようが関係ない。もしかしたら、藤壺の宮の所へ夜這いにでもいったのかもしれない。そんなもんはどうでもいい。
まったく、源氏は息子のように育ててくれた、つまり自分にとって母のような女にすら手を出すんだ。よほど変態でないと出来ない荒業だ。
そういう趣味があるから紫の上にも手を出したに違いない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
音華はふっと顔を上げた。真夜中の、変な感情の高鳴りのせいだろうか。下手な妄想は簡単に頭をよぎる。
もしかして、あいつ、俺の母親のこと好きだったんじゃないだろうか。
光源氏ではないが。やたら若草という自分の母親についてはいい事ばかり言う。
あの袴だって、若気の至りで胸が痛んで、手にとるにとれなかったんじゃ。
「・・・・・・・・・・・・・。それだけは嫌だな。」
莫迦げだことを考えた自分の頭に吐き気がした。
だけど、月があまりに綺麗だったので、あの鏡洞の前で足を止めてしまった。月のせいだ。心を酔わせるそのせいだ。
音華はじっと、そこを見つめた。そして、一歩。一歩近づいて、がしっと土を掴んだ。そのまま持ち上げる。自分の体を持ち上げる。
月の灯りでよく見える。自分の指。月の灯りで、よく見える。そこに芳河がいたのが。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
言葉を失った。何が言えた?叫べただろうか。
「・・・・・・・・・・・・起きたのか。」
芳河が振り向かずにいった。
あれ?
「・・・・・・おう。」
なんだか、こういうこと。前にもあった気がする。
「ここのこと、知っていたんだな。」
登りきったときに、母の墓前で座りこむ男の背中を見つけること。前にもあった。
「・・・・・・・おう。」
「・・・そうか。」
すこし、あの男の肩幅に似てる。そういえば、あの男をみたときにも芳河を思い浮かべた。
「音華。」
「・・・・・・・おう。」
「此処を、このままに出来ないかもしれん。」
「・・・・・・・おう。」
分かってた。音華にだって。なんとなく。
ここが、この森との境目があいまいなこの場所が、鬼の通り道だったということ。
不思議だったから。この寺の中に、始め無数の鬼が沸いたことも。鬼火がうつったことも。神聖で何も寄せ付けない空気を放ってるくせに。
それが不思議だったから。きっとこの場所は、穴なんだと思った。あの男がこの森に入るなと言った時。
「音華。」
「なんだよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんでもない。」
なんでもないこと、ないだろう。らしくないだろう。
「・・・・・・・・おう。」
何も言わなかった。言えなかった。芳河が言いかけて止めたことは、きっと、今無理矢理聞き出してはならないものなんだと悟った。
芳河にまだ、その覚悟がないような。自分にもまだ聞く勇気がないような。そんなもののような気がしたんだ。
「なぁ芳河。」
音華は芳河の隣までいって呟いた。芳河はこちらを見上げない。
「俺・・・・・。お前にキスされたの、死ぬほど嫌だったけどさ。」
「俺じゃない。」
「それでも・・・・・・。」
それでも。
また、阿呆っていわれるだろうな。なんの底も、天上も、しらないお前の言いそうな楽天的な思考だと言われるだろうな。
「俺は、此処に来たい。此処に・・・・・・・。」
此処に。
あぁ。ばっかやろう。
「此処に、母さんにあいに来たい。」
空を見た。満月のせいで満天ではないが、星が落ちてきそうだった。下を向けなかった。芳河が刺さるような真っ直ぐな目線を送ってくるから。
「他の場所じゃ・・・だめなのか。」
無言。
「・・・・そうか。」
芳河はため息混じりにいった。
せめて。
せめて、この箱のような場所から、ずっと、殆んど出る事が出来なかった母さんに、此処にいて欲しかった。
この屋敷を全て見渡す事が出来、でも振り向けば別の世界も覗ける。
空を仰げば遠くの山が見えて、星はまるで散りばめられた電球のようだ。
此処からだったら、俺のこと、よく見える?此処からだったら、世界が見える?それはあの部屋の中からは決して見ることの出来なかったもの。
「・・・いくぞ。もう遅い。寝ろ。」
「・・・・・峰寿達、多分俺の部屋でダウンしてるかな。」
ため息。
「音華。」
「あ?」
手が差し出された。そしてそれは音華の掌を奪ってく。
「気を付けろ。降りるぞ。」
「・・・・・・・てめぇに引率されねぇでも大丈夫なんだよ・・・っ!」
手は、振り払えなかった。
「・・・なぁ芳河。お前、吸魂鬼に、くわれたことねぇの?」
訊いて見た。
「・・・・・・・・・・・・・お前とは違う。」
あぁ。殺そっかな。


墓前。一人で屈みこんでみた。
お盆に来る事が出来なかったから。初盆なのに。来る事が出来なかったから。
「若草様・・・・。」
呼んでみた。芳河君。と優しい声が返ってきそうだった。
「・・・・・・・。」
芳河は後ろに気配を覚えた。その気配はすぐに自分の前にやってくる。
「音華。」
吸魂鬼だ。芳河はその顔が近づいてくる前に、トン、っと指で音華の、吸魂鬼の喉をついた。それは動きを止めた。
「オン。」
しゅるんっと。するっと、それは解けて消えてしまった。あと一寸で唇が触れるところだった。芳河はため息をついた。
「・・・・・・そんなに、お前のことを考えてるとは、知らなかった。」
若草のことを考えているつもりだった。
優しい笑顔で、優しい手で、何度も幾度となく、救ってくれた彼女を。
ふっと、芳河は笑った。おかしい。
彼女とは似ても似つかない。音華が目の前に現われたのが、おかしかった。
もうひとつ、背後に気配を感じた。今度は分かる。それが誰だか。
「・・・・・・・・起きたのか。」
それは、熱を持った、生きている、音華だ。彼女が心底愛していた、音華だ。


On*** 26 終わり



■ホーム■□□   拍手   意見箱   投票
index:         10
index: 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20

index: 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30
 


 

inserted by FC2 system