61,
水瓶に写った自分の顔を見る。そして冷笑する。誰だこれ。
セツだ。
我ながら、随分派手なことをやっている。エラルドもクシスも、自分のことには気づいているだろう。
だけど、確信だ。
アイツだけは、絶対に気付いていない。笑えた。声を押し殺して笑った。
一人。孤独な、控え室。決勝に出る人間にだけ与えられる床。真っ暗なまま。
机の上に置いてあるパンを掴んでかじった。クリスティーナ・バルバラか。
ラファルがその名前を紙面で見たらきっと絶句してるだろうな。
まぁ、サリーナ・マハリンまでこのことについての号外がタイムリーに出されるとは思わないけど。
短剣を手入れする。今日は随分血を吸った。
それでも刃こぼれしないのはセツがいつも丁寧に丁寧に手入れをしているからだ。
肩が痛んだ。打撲だ。水瓶から水を掬い取り、小さな盆に入れて布を浸した。その布を肩に当てる。
慣れている。応急処置である程度回復する。というか、痛みにはそんなに敏感ではない。忘れることができる。
セツは目を閉じた。そして床に倒れる。明日か。明日。今登る月が落ちて日が登る。そしたら。
そしたら。明日が来る。そうだ、闇に溶けていよう。今は。



62,
「さって、段取りは完璧かな?」
グルーが言った。すたすたと幾人もの男たちの間を通り抜けながら愛想よく笑っている。
周りの者たちもがしっと腕をむき出して、応えている。グルーは笑った。
「俺達は此処で待機。時は迫ってる。なんとあの最強の傭兵ルクも俺達の誘いに乗った。」
ざわっと歓喜の声が立つ。グルーはひょうきんに笑う。
「最終確認だ。」
バサッと大きな紙を出してインクのついたペンを持ち、白いその上に黒で線を描く。
「ここが城。ここが王の寝室。そして此処に王に仕える直属の兵士達が配置されている。こっちが王の間。そして此処が・・・ナイトオリンピア開催の、闘技場。」
さらさらと簡易な地図を書いていく。全部頭に詰まっている。
城に内通しているものに見取り図を貰った。
グルーがこの若者たちのリーダーに抜擢されたのは、そのリーダー性質だけでなく、この記憶力だった。
グルーはとりあえず頭がいい。頭が回るし行動力もある。剣の腕もそこそこだ。
「いいな?」
グルーが周りの者達を見て言った。
「此処だ。此処から入り込む。」
黒いインクが紙を染めていく。
「でもこの計画、すべてはやつに掛かってるんだろ?」
グルーはそう言った青年の顔をじっと見た。
「あいつのことは心配するなよ。奴以外に誰ができる?そんなヘマをする奴じゃねぇよ。」
「・・・そうだな。」
「俺達は、俺たちの役割をこなすんだ。」
息をついて、グルーは空を見た。
「・・・・随分明るい月だな。・・・星が見えねぇや。」



63,
黒い箱はもう鳴かない。
彼は悟る。目をつむった。塔の、崩れかけた塔の頂上で、一人取り残されているひどい調律のピアノ。
セツはもう弾かないだろう。そしてこの塔と共に永遠に失われてしまうだろう。
セツがピアノを弾き始めた頃、セツはよく泣いていた。泣きながら弾いていた。
その涙に呼応するように黒い箱は悲しい音を出した。いつでもセツの心を映し出そうとしていた。
あぁ、セツ。今、君は闇に完全に溶けたらしい。だっていつも微かに聞こえていた心臓の音すらしないもの。
君が消えたら僕も消えてしまう。ねぇ世界の崩壊は、君の望むものだったんだろうか。

そんなことを言うのなら、あんたが王になれ。くれてやる。

セツは泣きながら言った。
僕は首を振った。無理だよセツ。僕はセツが居るから此処に居るんだ。
僕はセツから生まれたんだ。そのことを君は知っている。
そんな逃げ方は許さない。僕は・・・でも僕は随分君から切り離されてしまったらしい。
時間の所為なのか、呪いの所為なのか分からない。
セツ。
僕は、もう君に何かを言うことが出来ない。僕にはもうできることは無い。
じゃあ、そうか。僕は此処で一人待とう。彼は、地下室の前に座りなおした。

セツ。



64,
僕は今が昼なのに気付く。痛い。頭や肩や脚が。
目を覚ます。
「!」
身体に自由がない。
「起きたかい?」
「!クシス!」
僕は全身から何かとげとげしい感情が弾け出すのを感じる。
「離せ!」
「こらこら、暴れるな。」
「今すぐ此処から出せ!」
「静かにしておくれ。」
クシスは笑った。
僕は昨日、夜飛び出した。馬に乱暴に乗ったまま。
真夜中、都の近くまで辿りついた。僕は息を切らしたまま馬を降り、そして歩き出した。その矢先だった。
殴打された。そこまで覚えてる。
「此処は何処だ。」
「おや、都だよ?君が昨日わざわざ来てくれたのを覚えていないのかい?」
僕はほっとする。よかった。此処がサリーナ・マハリンじゃなくて。間に合う。まだ間に合う。
「逃げることは考えないでくれよ。」
クシスが冷笑したまま言った。
「離せ・・・・ッ!」
僕は思いっきり睨みつけた。
「王座の鍵ならくれてやる!なんでもくれてやる!そんなものは僕は要らない!だから離せ!」
「おやおや。何をそんなに急いでいるんだ?」
「うるさい!」
僕は涙が出そうになった。声がひっくり返る。どうして僕はこんな時すら弱い。セツなら?
「王座の鍵・・・か。」
クシスは笑った。
「何処にある?」
僕は躊躇する。言いたくない。だけど、言わないと、いけない。
「絶対僕を離すか?」
「・・・話によるね。」
僕は嫌悪する。この男を信用していいか分からない。
「僕の命が欲しいのか?」
「僕は別に君の命自体にそこまで興味はないよ。だけどね。君が手にいれようとしている秘密に興味が在る。君はその秘密を手に入れてはいけない人間なんだ。」
「どういうことだ。」
「いや、違うな。うん。君が手に入れようが入れまいが、そこまで関係はない。だが、話は随分ややこしいところまでいってしまっている。君が手に入れた後が問題なんだ。君は勿論その男を探しだし、会う。そうだね?」
「・・・・・・・・・。」
頷きかねた。
「そうすることで、その男は君を手に入れる。一応のところ王の子どもで城から忽然と姿を消した国の後継者を手に入れる。君が私生児だということはこの国の民は誰一人として知らないからね。ただの行方不明の皇子ってことになっている。」
クシスはうん、と何かに頷きながら言った。
「それでだ。その男が君を得たらどうなるか分かるかな?」
「分からない。」
「莫迦だね君はつくづく。頭に塩が足りない。」
分かってるさ。僕は叫びそうになる。
「その男が手に入れる力は、計り知れないんだよ。それが私には非常に不都合だ。」
「・・・。」
僕は眉間にしわを寄せる。
「・・・行かせろ・・・。」
「まったく、まだ分からないか。一体何処に行きたいんだい。君は。愚かだな。」
クシスは一瞬考えて、あぁ、と呟く。
「そうか、セツの所に行くんだな?」
「それの何が悪い。」
「あはは・・・っ懲りずにまだ一緒に居たいのかい君は。」
嫌悪する。そうだ。そうだよ。それの何が悪い。僕はセツを止めたい。
「分かっていると思うけれど、セツは死ぬよ。」
僕は背筋に何か冷たいものが通り抜けたのを感じた。
「任務を終わらせて、彼女は死ぬ。それは自分でずっと昔に決めていたことだ。」
「・・・・っ離せ!」
僕はもがく。
クシスは僕の頭を掴んだ。
「どうしても行きたいのかい?」
僕は頷く。触れるな、と叫びたい。
「だが私としても、セツの邪魔をさせに行かせるわけにはいかないんだ。」
「エラルドか!」
「そう。一応のところ奴とは利害一致で手をくんでいる。奴の邪魔をするのは協定違反だろ?」
「お前はセツのことが好きじゃないんだ!」
僕は叫んでた。
「どうしてセツにそんなことさせるんだ!もうセツは・・・っもうセツをこれ以上壊さないでくれ!」
「おもしろいことをいうね。何様だい君は。君のせいでセツは死ぬ想いをしてもがいていたんだよ。そして損なわれていったし、壊れていった。君にそんなこと言う資格はない。」
「分かってるさ!」
僕は泣いていた。
「でも僕はセツが好きだ!絶対これ以上苦しむセツなんか見たくない!」
叫んでいた。なんて莫迦な。なんて餓鬼な。呆れる。自分が憎いほどだ。
「・・・・・・・・・ふん。」
クシスは笑った。
「そうか。」
僕は泣いている。僕はなんて無様なんだろう。
「それで?王座の鍵は?」
「・・・・っ母さんの・・・。」
僕は。
「母さんの中にある・・・・。」
最後にすがりつく。これにしか、母親の墓を暴かせることでしか得られない希望にすがりついた。
愚かだ。そして、なんて罪深い。
「そうか。」
クシスは笑った。そして小さなナイフを取り出して僕に振りかざした。
僕は目をつむる。だけど何も起こらなかった。
「貴重な情報をありがとう。感謝するよ皇子。」
「・・・・っ・・・。」
クシスは笑ったまま、ナイフを近くに投げて一歩下がった。
「また後で、殺しに来てやろう。最後にやりたいことをやって、待っていなさい。」
そして僕に背を向けて部屋を出ていった。沈黙が残る。僕の涙はもう一滴落ちた。でも、決めた。
それが地面に落ちた瞬間に、もう泣かない。泣かない。泣かない。顔を上げた。
「ありがとうございます。」
そしてナイフで切り込みの入った縄を、手を動かして解き、床に落ちているナイフで脚に巻かれた縄を切った。
そして僕はそのナイフをポケットに入れてゆっくりと扉を開けて出ていく。外には誰も居なかった。



65,
夕方がやって来た。さぁ、日没と共に、始まる。巨大ないくつものランプが灯る。闘技場は昼同然に明るく光る。
さぁ、月の時間だ。
セツは、ゆっくりと短剣を腰にさして目を開けた。そして石の階段を上がる。眩しいくらいの会場に上がる。
一瞬目を細めたがすぐにセツは向こう側にいる戦の相手を見つけてじっと見つめる。
ハインリヒ・イワン。国王軍の将軍。今の所王の直属の一番の兵士でも在る。常に側に付き、王のみを守る役目を受けている。
此処に登っていてもなんら不思議な男ではない。というか、向こうも必死だったに違いない。その名に賭けて。
セツはふっと笑う。だけど、それは好都合だ。
セツはこつんこつんと、靴を鳴らした。脚の調子は万全。昨日ぶつけた肩が少し痛むくらいだ。
問題ない。そんなのは戦い始めたら忘れるような些細なことだ。審判が何か言っている。
そして会場がしんとした瞬間に王が何かをいう。セツはそれを無意識に聞かないようにすることができた。
だから何を言っていたかなんて知らない。ただ、下を向いていた。
腰に在る自分の証を見つめる。母親と此処から放り出された時に唯一此処から持ち出したものだ。
あとの物は、全て此処に置いてきた。というか、元から何も無かった。
ただこの短剣だけが、その時持ち出したものとして、最後の自分のしるしになっていた。
審判がセツに声を掛ける。セツは、微笑んで頷く。
そう。笑顔を作ることは容易い。人を騙すことは容易い。自分を違うモノにするのは容易い。
そうだ。気付いちゃいないんだろう?王を一瞬睨むように見る。
お前の娘だよ。ここにいるのは。汚らわしい野獣がうんだ、呪われた人形だ。
ドラが鳴る。その瞬間に、少し早いくらいだったかもしれない。セツは跳んだ。それは今までで一番高い跳躍だった。
ガキン!最初の一手はぎりぎりの所で受け止められた。ハインリヒは一瞬冷や汗をかいた。
此処まで速いのか。なんだこの女は。なんだこの目は。ぞっとした。殺気。
禍々しい感情の塊のような女だった。さっきみせた笑顔は、贋物だ。怖ろしいと思った。
ハインリヒは次の手もギリギリで受け止めた。
速い。速い。セツは息をしていないように見えた。髪の毛を揺らして、何も乱すことなく鋭い一手を出してくる。
短剣というリーチのない武器で、長剣のハインリヒと戦っている。それも至近距離で。
怖いとかそういう感情はないのかこの女には。いや、ちがう、それをカバーできるという自信が彼女にはあるのだ。
どんな一手を出そうと受け止め、往なす事が出来るという絶対の自信があるのだ。
ハインリヒは、気持ちの上で負けそうになっている自分に気付いた。
彼女の大きな眼が、自分を刺すように見る。それはもう、無表情に近い。こいつは、化け物だ。
人間じゃ、ない。



66,
「ロイサ・・・?」
公爵が窓辺で頬杖をつくロイサに近づいて、声を掛けた。
「どうしたんだ?灯りも付けずに。」
ロイサは振り向いた。その目から大粒の涙が流れていた。
「・・・ロイサ。」
「スピカは・・・行きました。」
掠れそうな声で、言った。その声はそれでも気高い。
「そうか・・・。」
「お父様。」
ロイサはもう一度窓の外を見る。
「お父様。待つしかできないことは、誰かに殺されに行くよりも辛いですわ。」
ロイサは父親の前で、とても、とても久しぶりに泣いていた。
「何故私は此処に居るんでしょうか。どうして・・・・・・。」
顔を伏せた。手の中に顔をすっぽりとしまい込み嗚咽をこぼしてロイサは泣いた。
公爵はロイサの肩に手を乗せた。
「信じなさい。」
ロイサはぶんぶんと首を振る。
「信じる事がいかに難しいか、お父様だってご存知の筈ですわ!」
ロイサは叫んでいた。
「お父様・・・私はお父様だってうまく信じられないんです。」
ロイサは、顔を上げて公爵を見た。
「私、分かっているんです。」
「・・・何をだい?」
「私のお母様より前に、他の女の方との間に子供を授かったことを。」
彼女の頬はより一層濡れる。
「お父様。私は望まれて生まれた子供ですか?それとも、偽りの愛で生まれた子供ですか?」
公爵はロイサの顔を覗きこんでそれからロイサを抱きしめた。
「それにはとても、とても長い話があるんだよ。」
ロイサは嗚咽をこぼす。
「すまなかった。知っているとは、思いもよらなかったんだ。時が来れば話そうと思っていたんだよ。」
「私はそんなに子供ではありませんわ。」
「あぁ。そうだね。立派なレディーだ。」
ロイサを撫でて公爵はいった。
「お父様。」
顔を上げてロイサは公爵を見た。
「スピカが、その、子供なんですわよね?」
ロイサの涙は止まっていた。その目は、公爵のその秘密を全て見通そうという芯のある目だった。



67,
初めて会った時に、不思議な感じがした。
この男の子は、自分と何かつながりが在る。そんな理由のない直感が耳の奥で囁く。
少し頼りない男の子。話がしてみたいと思った。きっと彼の糸は私の糸と遠い何処かでぶつかる。
だから馬車に乗せた。その時はそんななんの脈絡もない直感を少し信じてみただけだった。
それ以上、どうこうしようという気もなかったし、ただ退屈だったというのもあった。
だけど二度目、会った時にその直感は確信へと変わった。ピティの前で立ちすくむ彼を見つけた時だ。
なんていう偶然なのかしら。まるで必然だわ。
そんなことを思った。そして必然ならばそこに意味はあると思った。
だからスピカを連れてピティの中へ入った。もっと、彼と話してみたい。
彼と一緒に久しぶりにお父様に会った。その時、感じた違和感みたいなもの。
「スピカと申します。お会いで来て光栄です。公爵。」
スピカがそういった時。本当に刹那だった。だけど、お父様の目の中に鈍い、何か線のような光を見た。
それは一瞬で消え、お父様は微笑んだ。そんなことは初めてだった。お父様の瞳の奥を見たのも、そんな鈍い光を見たのも。
「此処に、おそらく、この辺りに何年か前に留まったことのある人間です。」
スピカがこう続ける。
「おそらく、貴族です。それも、此処に泊まれるような。15、6年前。もしくは17年前。」
その時、探している人間はスピカの父親だと悟る。
父親の目の奥に光はもうないが、心の奥にひっかかっていた。
「昨日のリストの事だが。1日待って欲しいと言われた。」
翌日、お父様がそう言った。1日待って欲しい?そんなことを言うだろうか。
疑問だった。お父様が頼んですぐに差し出さないなんてこと、ありうるだろうか?
まさか。ピティはお父様が最もよく使う滞在場所のひとつだ。ここで融通の聞かないことなんて殆んどない。
不思議に思って密かにお父様の部屋に行き、探した。そのリストを。それは、おもむろに机の上に置いてあった。心臓が少し、唸った。
それを開く。すると簡単に表紙が外れてしまった。紐が解かれていたのだ。
「あっ。」
声をこぼして、元に戻そうとする。だけど、手を止めて考えた。
何故?何故、お父様はこれを紐とく必要があったんだろう。何かを、抜き取るため?
ロイサはそれを手早く戻して近くを見渡した。引き出しを開ける。悪いことをしている気がした。
お父様はそんな小さなことで怒る人ではない。だけどこの行為は父親の深い所を探るような。無作法に土足で入っていくようなものの気がした。
引き出しの中に、一枚の紙が入っていた。どう考えてもこのリストの一枚だ。そこにはお父様の名前が書いてある。
ある一日のリストだ。それは17年前の。そこには他の人間の名前もいくつか書いてある。
何故?そう思った時に、父親が帰ってきた気配がした。ロイサは急いで引き出しを閉めた。そしてこっそりと別のドアから部屋を出た。
そこからずっと考えていた。一つの疑念と一つの仮定。苦しくなるような、仮定。



68,
戦っていると、時々、自分が消える。
完全にセツは居なくなり、そして俺がやってくる。
それは自然と。ルクに付いていた時から、ルクと手合わせをしている間にも起こった。
めまいが起こるような。世界が揺らぐようなそんな感覚だ。だけどその時に限って自分の身体は鋭く、そして機敏に動く。
この、俺、を見た事はない。自分の世界にも居ない。じゃあいつもは何処にいるんだろう。
もしかして、あいつなのかもしれない、と思う。ずっと塔の中にいる。自分が産んだ、自分の半分。
烏のように黒い髪の毛の男。自分の世界での唯一のルール。
何故自分の中の、もう一人の自分でありながら、こうも自我を持ち、自分を誡め、自分を止めようとしてくれるのか。
そしてその姿が男の子であるのかは、知らない。そいつは、自分の身体が成長すると共に、大きくなっていった。
あいつの顔。今ははっきりと見える。はっきりと誰だか言える。
それは、それすら呪いのように感じてしまう。

あの顔は、スピカだ。



69,
ドシャァアアア!
結構な音がした。はっとする。セツ自身が。
大きな歓声が自分の体を包んだ。耳を塞いでしまいたいような騒音だった。
セツは周りを見渡す。血の付いた短剣を見つける。倒れている男を見つける。息を切らしていない自分に気付く。
こんなにも頭はがんがんしているのに。絶対に酸素が足りてないような気がするのに。真っ白に近いのに。
「勝者!クリスティーナ・バルバラ!」
審判が叫んだ。セツは手を取られ、上に上げられる。痛んだ。痛みがある。いつの間に傷ついていたんだろう。
「今年のナイトオリンピア!優勝者は少女です!クリスティーナ・バルバラ!クリスティーナ・バルバラ!」
わああああ、と歓声が激しく巻き起こる。
セツは持っていた布で、短剣についた血を拭った。そして腰に収める。
「・・・死んじゃいないよな・・・。」
呟く。男は呻いて頷いた。
「よかった・・・。」
セツは微笑んだ。
「この剣で、今、人を殺めたくなかったんだ。」
そして、セツは颯爽とその場を去った。それは、毅然としていた。超然としていた。

僕はその瞬間に会場に駆けつけた。
セツ!叫びたかった。だけどそんな声は全て消えてしまうだろう程の歓声だった。
僕は一応の変装をしているが、此処には長くいちゃいけないと思った。
だけど、だめだ。セツを止めないといけない。
セツ。セツ。僕の心の中は、その名前で溢れていた。
しばらくして、セツはもう一度舞台に現われる。腕に白い包帯を巻いて。
その白い布にうっすらと滲む血をみる。僕の心臓がしまる。
「クリスティーナ!」
皆がセツの名前を呼ぶ。でもそれは偽名の。だれもセツのことを知らない。
気付いてるのは醜い奴らだけだ。
セツはすたすたと会場の真ん中にやってきて一礼した。紙吹雪でよく見えない。
クリスティーナでも、バルバラでも、男でも、セツキでもない。
セツ。セツはセツだ。お願いだ。間に合え。僕は拳を握る。止めなくては。
でもどうやって?どうする?あぁ。この無い頭で考えろ。
もう無力だと泣くのはお終いだ。
次の瞬間に身体がこわばる。歓声がふわっと止む。王が会場に降りてきたのだ。
僕の身体から冷や汗か油汗が滲む。気持ちが悪くなってきた。
王はセツの前、2メートルのところで立ち止まる。セツは王の方へゆっくりと振り向き、そして膝をついて頭を垂れた。
心臓がすごい音で鳴っている。破れてしまうのではないだろうかと思うほど。
セツ。セツ。君の心臓は、今、こんな風に鳴っているんじゃないのか?



70,
さらしを腕に巻き付けて止血をする。そして短剣をもう一度丹念にふく。
まだ歓声は鳴り止まない。クリスティーナ、そう呼ばれている。
セツは笑った。この大会にルクが出てこなくてよかった。だったら勝ち目は無かったものな。
いや、もしかして、ルクを殺す気で戦ったかもしれない。そして殺めてしまったかもしれない。
セツは首を振る。この仮定は実現しない物だ。思ったよりも、あっさり勝ててしまった。そう思った。
自惚れでもなんでもない。強くなった。それは確かだった。でもそれは凶暴な力だ。分かってた。誇ろうとも思わなかった。
後ろから声が掛かる
「どうぞ会場へ出てください、勝者の王への懇願です。」
ざわっと心が疼く。頷いて会場へと帰っていく。息が上がりそうだった。
そこには先ほど倒した男はもう居なかった。散りばめられた紙吹雪。まだ性懲りも無く降ってくる。うっとおしいくらいだ。
会場の中央で足を止めた。そして一礼する。なんだか、スピカがそこに居る気がした。
なんでだろう。闇に光る最後の星を見つけたかったのかもしれない。莫迦だな。呟く。掻き消されてしまうけれど。
なぁ知ってるか。星も月も、自分一人の力じゃ光れないんだぞ。滑稽だよな。誰よりも一人で立ちたいと望んでいるのに。
歓声が鳴り止む。ゆっくりと顔を上げた。そして振り向くと、そこに居た。毛が逆立つ想いだ。反吐が出そうな想いだ。
なんだろう。変な感じだ。これは私か?誰だ?どろんとした何かの混合物がうねって波を打つ。
それは饐えた匂いのする汚い波で、触れると焼けてしまう。そういうものだ。
ハンブル。王。父。仇。
膝をついた。そして頭を垂れた。ひどく身体が震えた。まるで麻薬に体を冒されたようだ。
死んでしまいそうなくらいの眩暈がする。だけど、心臓は何故かしんとしていた。
それは夜の海のように、それは砂漠に埋まった屍骸のように。体を襲う、ひどい屈辱。

殺 し て し ま い た い。



■71〜80■□□


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