91,
「・・・ピアノ。」
セツは呟いた。
「あ、えぇ。ご不満でしたか?」
セツは首を振る。ロイサは微笑んだ。セツが通された寝室に黒い箱が置かれていた。
「以前音楽家を此処に招いていたんです。それからずっと置いてあって。変わり者で、寝る直前にしか作曲が出来ないとか。」
「へぇ・・・・。」
「お着替えなどは此処にある物を使ってください、お気に召しませんでしたら新しく持ってこさせますわ。」
「・・・ありがとうございます。・・・でも、ロイサ嬢。」
「はい?」
「わざわざロイサ嬢がこんな風に部屋まで通さなくても・・・。召使がいくらかいらっしゃいましょう。」
ロイサは笑った。
「いいんです。私は自分で出来ることは自分でやります。お迎えするお客様くらい、自分の手でお通ししたいわ。」
「・・・ご立派で。」
ロイサは微笑んだ。
「では、セツ様、おやすみなさい。」
「おやすみなさい。良い夢を。」
扉を閉めた。
セツは息をついてから、ドレスを脱ぎ捨てた。そして、ナイトガウンを羽織って、窓のカーテンを開けて部屋の灯りを星と月の光だけにした。
十分だ。夜目は利く。その脚で、セツはまっすぐピアノに向かった。ガコン。箱を開ける。指先で白い鍵盤を撫でる。

ねぇ、セツ。ピアノを弾いてよ。

無言で頷いて、セツは椅子に腰をかけた。
ポーン。と一つ。はじいて見る。いい音。しっかり、調律されている。目を閉じてその余韻を聴く。
息を吸い込む。止める。
指先で、はじく。白と黒の音の流れ。

「・・・・・・・あれ?」
僕は顔を上げる。
「・・・ピアノだ。」
ピアノの音が聞こえる。それは近くから。それは遠くから。耳を澄ます。誰が弾いているんだろう。だけどそれは明らかだった。
セツだ。このピアノはセツだ。たどたどしいような、ずっしりと重いような、だけど芯から響くような。
ハラハラさせるけれど、ざわつかせるような。セツのピアノだ。
僕は目を閉じる。
悲愴じゃない。あの曲だ。悲しいような。美しいような。綺麗な曲。
だけどあの時弾いたのとは少し違う。もっと、もっと、優しい曲だった。



92,
「これから、どうするんだ?」
セツが問う。僕は黙る。
「セツは・・・?何処かに行きたい?」
「いや。特には、今はない。」
ソファに腰を掛けて、紅茶を飲みながらセツは言った。もうすっかり髪の毛は元に戻してしまっていた。
だけど、着る服は借りるしかないのでドレスを着ている。
「だけど、できるだけ長居はしたくない。」
「どうして?」
セツが微笑む。
「甘えたくないからだよ。」
「・・・うん。」
僕は頷いた。
「でも、セツ。・・・あと、1日、待ってくれないか?」
「・・・1日?」
「うん。あと1日。」
「・・・いいよ。分かった。」
セツは紅茶を飲み干した。
「で、スピカ。」
「何?」
「父親のヒント。あれ、検討とか、ついたのか?」
僕は黙る。そして微笑む。
「もう少し。今、まだ考えてるところ。」
「そうか。」
「大丈夫。ゆっくりでもいいんだ。」
「うん。」
ゆっくり。
だけど、偽りはない。ルクに言った言葉に。



93,
特別な日。
それはいつからだっただろうか。いつから気付いただろうか。
ロイサは窓から庭を見下ろして思った。
特別な日。
お父様は、この日だけは必ず家に帰ってくる。どんな事があろうと、必ず戻ってくる。
何をするわけじゃない。だけどただ、一人で必ず部屋におこもりになられる。
だけど、そうするのはこの日だけじゃない。同じようにする日がもう1日在る。
私はこの事に気付いた時から、ずっと頭に一つの疑念の塊を持っていた。
それはこぼれて、壊れた。この間のことだ。
ロイサは、ふと目に留める。
セツとスピカが庭に出ている。ロイサは微笑む。
昨日のセツのピアノを思い返す。
綺麗な曲だった。悲しいけれど。優しかった。
「・・・お父様だわ。」
ロイサは立ち上がった。



94,
ふと、セツが前ロイサに言った言葉を思い出した。
「全ての事が終わった時に、あなたが此処を変えてください。あなたに同意しますよ。ロイサ嬢。此処は、腐った世界だ。それから。スピカのことはどうぞ面倒を見てやってください。」
セツの横顔を見る。しゃがみこんで何かを見ている。
「大した庭だな。植物学的に見てもとても貴重だ。」
「え?」
「この庭にある植物。」
「・・・・・植物?」
「うん。すごい多様性だ。」
僕は辺りを見渡す。だけど、そういう言葉は出てこない。セツは笑った。
僕は少しふくれて、それから切り出す。
「ねぇ、セツ。この前ロイサに言った言葉にさ。」
「ん?」
「全ての事が終わった後に・・ってやつ。」
「・・・・あぁ。」
「セツは・・・その時、死ぬつもりだったんだよね。」
セツは僕の目を見る。じっとみる。僕は目を背けたくなる。でも、背けない。逃げない。卑怯にならない。二度と。
「うん。」
セツは頷いた。
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。」
また曖昧な返事。
「まだ何とも言えなかった。その時は。呪いに飲み込まれるのか、それとも先にラピス・ラズリが見つかるのか・・・。分からなかった。」
セツは指先で小さな雑草の花に触れる。
「それに、私を必死に諫めて、止めようとする奴が居た。」
ふいにセツは僕を見る。
「だから、まだ分からなかった。でも、覚悟はしていた。飲み込まれてしまった時の。」
僕は、そのセツの目を見つめて、黙る。そいつは、誰なんだろうと思う。
「・・・だから、僕のこと、頼む、とか、ロイサに言ったんだね。」
セツは微笑む。やわらかく。
「ロイサ嬢ならスピカを好きだろうし、しっかり守ってくれると思ったんだ。余計なお世話だったかもしれないけど。」
「・・・・ほんとだよ。」
セツは笑う。僕はセツに触れたいと思う。



95,
「スピカ君。」
声が掛かって僕は立ち上がる。
「公爵!」
後ろに公爵がいた。彼は微笑んでいた。セツもゆっくりと立ち上がる。
「御機嫌よう。ロイサが随分心配していたよ。」
「あ・・・っ、・・・はい・・・。すみませんでした。・・・僕・・・。」
公爵は微笑んだ。
「いい。無事だったのなら、ロイサも安心したことだろう。・・・そちらの方は?」
セツはドレスの裾を微かにつまんで御辞儀をした。そこにはやはり気品と気高さが見える。
「お初にお目に掛かります。セツと申します。」
「ロイサの友人かな?」
「えぇ。明日まで、ここでお世話になる予定です。」
公爵は微笑んだ。
「お父様!」
後ろからロイサが走ってやってきた。
「こらこらロイサ。はしたないだろう。」
「構いませんわ。誰も見てやしません。」
「お客様の前だろうに。」
ロイサは無視してセツとスピカに微笑んだ。
「セツ様、こちらは私のお父様です。お父様、この方はセツ様。スピカの・・・。」
ロイサは僕を見る。僕は首を振る。
「ご友人ですわ。そして私のご友人。」
「今挨拶をしていたところだよ。」
「あら、それは失礼しました。」
にこっとロイサは笑った。公爵はロイサの頭を撫でた。
「お父様、今宵はセツ様とスピカとご夕食しましょうね。」
「あぁ。喜んで。」
セツはその二人を見つめている。僕はその眼が気になった。それが伝わったのかセツはくるっと僕のほうに振り返る。
「何?」
「あ・・・っ。なんでも・・・。」
セツはふっと笑った。
「大丈夫だ。」
僕は頷く。なんでも知ってるセツ。僕は、何も隠せないと思った。
情報におけるフェアは、僕から破壊してやろう。全部セツに話そうと思った。



96,
夕餉の後。夜深くになってから、セツは暗くなった廊下を歩いていた。
スピカに呼び出されたから。だけどスピカは現われない。
「たしか、ここらへんで待ってろって言ったんだけどな。」
呟く。セツはガウンを羽織りなおし、ため息をつく。廊下。たくさんの石像や絵画が飾られている。
セツはそれらを眺めながら歩いた。なんとなく、疼くんだ。こういうところにずっと居ると。
だから早く出て行きたかった。甘えたくなかったし、この世界は長く居ると人を狂わせがちだ。
ここは、自分の世界では、もうない。明日・・・。明日何処へ行こうか。

ふっと、前を見る。廊下に光の筋が描かれていたからだ。それは細く、細く、微かな黄色い光。赤い絨毯に線を描いている。
「?」
不思議に思った。此処は、誰かの部屋だったんだ。そして少し近づいた時に、そこにスピカが居ることに気がつく。
声がした。セツはなんとなく脚を忍ばせて近づいた。

「夜分遅くに、申し訳ありません。」
僕は頭を下げた。
「いいや。急な用事なら仕方がない。どうしたんだい?」
公爵は微笑んで、僕をソファに座らせた。やけに心臓が静かだ。一寸、目を閉じて息を吸い込んだ。僕は言う。
「いくつか訊きたい事があるんです。」
「どうぞ。」
「公爵は、カザンブールの一番の貴族、そうですね?」
「・・・まぁ、そうなるかもしれない。」
「アングランドファウスト家をご存知ですか、東のサリーナ・マハリンの近くの貴族で。位は伯爵です。」
「・・・あぁ。知っている。」
「一度・・・サリーナ・マハリンと・・・諍いがありましたよね?カザンブールは。」
公爵は微笑む。
「正確には、アルブ南部と、イルル東部だ。」
「・・・アルブ南部と、イルルは、まだ調和していない。そうですよね?」
公爵の表情は、よく見えない。だけど、うっすらと微笑んでいるような、無表情のような。
沈黙が流れる。耐え切れそうにない。だけど、耐える。僕は汗が滲むのを感じた。だけど心臓は変わらず沈黙している。
「・・・何故・・・そんなことを訊くのかな?」
「これが、与えられた示唆だからです。」
「君の探し人の?」
「はい。父親です。」
僕は言い切る。公爵の表情は変わらず穏やかだが、何を考えているのか、全く分からない。
「公爵。あなたが僕の御父さんですよね。」
心臓は、死んでしまったかのように静かだった。



97,
長い、長い沈黙。そして、それを破る長い、長いため息。
「スピカ君。」
「はい。」
僕は真っ直ぐ彼を見吸える。父親を見据える。
「なぜ、そんなことを言うんだい?」
「僕が立てた、最も有力な仮説だからです。」
「根拠は?」
「示唆を信じれば、あります。」
「示唆とは?」
「アングランドファウスト家と対立関係にある上流貴族で、僕が一度近づいた事がある人だと、与えられました。」
「それによると、私が最も有力だと。」
「そうです。」
僕の目は、絶対に背かない。目を背けられたとしても見据えてやる。それくらい強かったと思う。
セツの眼差しのように。セツのように彼を見つめた。
彼は、一度長いこと目を閉じた。そしてゆっくりと瞳を開く。そして僕を見て微笑む。
「答えていただけますか。もしも違うのならば、莫迦なことを言っていると笑って貰って構いません。」
公爵は僕を見つめて言う。
「スピカ君。」
「はい。」
「私は君の事を、よくは知らない。だから、そうやすやすと君を自分の息子だと容認することは難い。」
僕はその目を見つめ返す。
「僕は・・・。」
口を開く。唇が微かに震えていた。
「僕は、スピカです。名前は母が付けました。母の名前はクレイです。卑官で王に見初められ愛人にされていました。」
心臓が、ことことと、妙な音を立てている気がした。
「王に連れられてほぼ国全土の貴族の邸宅に行っていたそうです。もちろんピティにも。僕が生まれたのは17年前。春です。・・・・・8、9歳まで城で暮らしていました。長いこと隠されて。母が囚われた時、僕は城を脱走しました。・・・それで・・・。」
息をつく。
「父親を探していました。・・・王は・・・僕の父親じゃないから。」
言い切った時に、早鐘がなる。心音だ。
公爵は目をつむっていた。僕はそれでも突き刺すほど、彼を見据えた。
「これが僕です。」
これが僕です。
「御父さん。」
公爵は瞼を開く。



98,
カタン。戸を開いた。そこに、セツが居た。分かっていたことだし、セツも何も動揺しなかった。そして僕を見つめていた。
僕は微笑んだ。
「おまたせ。」
セツは何も言い返さなかった。僕は戸を閉めきって、息をついた。
「聴いた?」
「うん。」
隠さず言った。僕は暗闇でセツを見つめる。セツの目は暗闇でも僕を突き刺すほど見つめる。
「・・・明日。」
セツは口を開く。
「明日、出発して、いいのか?」
「うん。」
僕は、頷いて笑った。
「もちろんだよ。」
「そうか。」
セツも微笑んだ。
僕はセツを追い越して、廊下を歩きだした。窓から月が見える。鮮やかに、夜空に浮ぶ。潔い。
「スピカ。」
後ろからセツが僕を呼んだ。僕は振り向く。セツはガウンを片手で抑えながら、手を伸ばす。
「手、繋がないか。」
僕は微笑んだ。
「よろこんで。」
そしてセツの、少しだけ冷えた手を取る。廊下を歩く。
「ねぇ、セツ。」
「何。」
「セツは、本当は、分かってたんじゃない?僕の父親のこと。」
「・・・王の子じゃないってことか。」
「それは・・・うん。それも。」
セツは頷いた。
「うん。知ってた。皇子が私生児だってことはクシスが話してくれたから。でも・・・今のことは知らなかったよ。知る由もないだろ。」
「そうだね。でも、なんとなく、セツは全部知ってるような気がしたんだ。」
「誤解だし、買いかぶりだ。」
「あはは。」
セツはいつもの目で僕を見る。
「ねぇ、セツ。」
セツの部屋の前で足を止めた。
「調子に乗ってるかもしれない。」
「スピカが?」
「うん。今。なんだか飛んでいけそうなくらいなんだ。」
「それは、調子に乗ってるな。」
セツは笑う。
「うん。」
僕はセツの額にキスをする。細い体を抱き締める。



99,
「おかえり。」
彼は笑った。セツも笑った。初めてこの塔の上で笑った。
「今、弾いてたろ。」
セツが言う。彼は頷く。
「あんたが弾いてるの、初めて見たよ。」
「初めてだもの。」
彼は立ち上がって、席を譲る。セツは黙ったまま黒い椅子をひき、座る。
「何を弾くの?」
「・・・今日は、第ニ楽章。」
「弾けないのに?」
「弾けないから。」
彼は黒い箱を、全て開ける。口を開く。糸が見える。
「じゃあ、民にも聴かしてやろう。」
「なんでだよ。」
セツはふっと笑った。
「未完成の君が、君だからだよ。君が此処の王だ。その君を、民に聴かせてやろう。」
「・・・あんた。結構突飛なこと考えるな。」
「ね、弾いてよ、セツ。」
セツはため息をついてから、ペダルを一度試すように踏んで、始めの和音をピアノで始めた。
たどたどしいし、間違えだらけの悲愴。未完成の黒い音符の波。
「ラピス・ラズリは要らないの?」
セツは頷いた。
「スペルだけで十分だ。」
「うん。この空は十分に蒼いよ。」
彼は笑った。
「僕は未完成のセツが好きだ。」
「そりゃどうも。・・・っ。」
間違えた。手が届かない。
「ここはもう、空っぽの帝国じゃないもの。」
セツは鍵盤を見つめる。必死だ。
「そうだよセツ。間違えて、必死になって、それで愛しいんだ。僕は君の世界が好きだよ。」



100,
出発の時、ロイサは微笑んだ。何かを含んだ笑顔だった。
「何?」
僕は問う。
「ううん。ねぇ、スピカ。私たちが出会ったのって、運命だと思わない?」
ロイサは輝く笑顔でそう言った。
「いつでも帰ってきていいのよ。もちろんセツ様も一緒に。此処は、あなたの家なんだから。」
「・・・。ロイサ。」
「お父様は、今日は部屋から出ていらっしゃらないわ。」
確かに公爵の姿はなかった。
「だけど、きっと同じことを言ったと思うわ。」
「・・・うん。ありがとう。ロイサ。」
僕は微笑んだ。
「セツ様。」
ロイサはセツの方に向きなおった。
「セツ様、お体にはお気をつけて、あまり無茶なさらないように。」
「ありがとうございます。」
「それから、お約束は、お守りしますわ。」
「約束?」
首を傾げる。
「此処を変える、という約束ですわ。」
「・・・あぁ。」
「今すぐには無理かもしれませんが、見ていらっしゃって。」
「楽しみにしていますよ。ロイサ嬢。」
セツは微笑んだ。
「じゃあ、行くね。」
僕は言う。
「えぇ。」
ロイサは微笑んで手を振る。
「御機嫌よう。」
「またね。ロイサっ。」
僕は振り向いて手を振る。ロイサはいつまでも手を振っている。セツも振り向いて小さく手を振った。
セツは呟く。
「ロイサは・・・知ってたのかもしれないな。」
「・・うん。そうかもしれない。」
僕は頷く。
「それで?何処に行く?目的が二人とも無くなってしまったぞ。」
「うん。じゃあ・・・。ブロイニュ。」
「ブロイニュ?」
「うん。」
「何故?」
僕は頷く。
「今日は、母さんの命日なんだ。」
「・・・墓?」
僕は頷く。特別な日。
「セツが・・・良ければだけど。」
セツは笑った。
「一緒に生きてくれって言ったのはそっちだぞ。行こう。何処へなりと。」
僕は頷いた。顔は熱い。
僕らは手を繋いで、駆けだした。調子に乗っているのかもしれない。だけど、飛んでしまおうと思った。
僕ら、このまま飛んでいけたら素敵じゃないか。そう思った。



■あとがき■□□


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