知る世界9

「正峰さん?」
ガシャン!
という音とともに、戸が閉まった。隣の部屋だ。
久しぶりに漱石に没頭していた。本を置いて立ち上がる。

インターホン、5回目だった。
ガチャン!
乱暴にドアが開いた。
「あっ・・・。」
「・・なんだ。」
「あ・・・。あの。」
どもってしまう。
「あの・・・だ・・大丈夫ですか?」
「・・・なにが。」
凄く不機嫌そうな顔をしていた。怖くなった。
「あの・・・だって・・・さっきすごい音して。部屋に入っていったから・・。何かあったのかなって・・・思って。」
「・・・それで、こんな夜中に俺の部屋に来るのか。君は。」
低い声。怖い。
「先生・・・正峰さんだって・・・来るじゃないですか。」
先生、ではなく、正峰さん、と呼んだ。呼んでみた。
「先日俺が何したか覚えてないのか。」
ぞくっとする。思い出す。あの感覚。怖い。
「お・・・ぼえ・・てます。」
下を向いた。顔を見れそうになかった。
腕が引っ張られた。飲みこまれた。ドアの中。部屋の中。
ガチャン。
またひどい音がして戸が閉まった。
「・・・正峰さん?」
玄関に入ったはいいがそこから中へは入れようとせず、ただ下を向いたまま、彼は立っていた。
「あの・・・。」
言った瞬間に抱きしめられた。
きつく抱きしめられたものだから、小さく呻いてしまった。
「ど・・・ッどうしたんですか!」
アルコールの匂いがする。
彼は何も言わない。
「・・・・・・・・。」
きっと、深い傷があるんだ。
誰かが傷をえぐったんだ。
そう、直感した。
「・・・正峰さん・・・ッ。」
そうじゃなかったら、こんなに大きな男の人がまるで絶望の中で小さな光にすがるように、私みたいな未成年に泣きついたりしないだろう。
「くる・・し。」
どんどん苦しくなってきた。
どうしたらいいんだろう。
こういう時、人はどうするの?
どうしたらいい?
分からない。
普通だったら?
「先・・!」
すっと、力が抜けた。手がほどけたからだ。
「せ・・」
だけど私の体が強張る。腕が痛む。握られてるから。
また、あの感覚。うわっとする。感覚。唇に重ねられる感覚。
「・・・・・・・・。」
彼はふと顔を離し、私を見下ろした。
「・・・泣かないのか。」
「・・・泣きません・・!」
声が上ずる。
「こういうこと、されると、思わなかったのか?」
「・・・思い・・・ません。でした。」
「無防備だな。」
カッとした。
「正峰・・さんが、こういうこと、するって。思わなかっただけです。」
「何故。」
「『女』が・・・嫌いだって言ってたから。」
「・・・。」
「嫌いなんでしょう?」
顔を見上げる。
「・・・嫌いだ。」
「なんでですか・・・?」
「汚い。」
「汚い・・・?」
「そうやって、綺麗な顔をして。」
するっと頬を撫でられる。
「綺麗な声をして。」
喉元に指が滑る。
「なのに、心は、全て、嘘まみれだ。」
ぞくっと。
してしまった。
心底。
彼の瞳の奥に、呪いが見える。憎悪が見える。
「・・・私も・・。そうだと・・・思うんですか?」
「『女』だからな。」
「偏見ですね。」
「偏見だ。」
認めた。あっさりと。
「子姫。」
「・・は・・い。」
「どうする。逃げなくていいのか。」
「逃げる?」
ぐっと首を掴まれた。苦しかった。
「早く此処から出ていかないと。綺麗なその顔も体も、汚れるぞ。」
「・・・。」
逃げたかった。怖い。
「二度と俺に近づくな。あの少年に、縋ればいい。俺なんかよりはずっと、いい。」
その言葉を飲み込んだら、言葉が口を衝いて出た。
「嫌です。」
「・・・な?」
「嫌です。」
震えてる。体。首は苦しくなくなっていた。
「・・・だって・・・私。」

この気持ちは、いったいなんだろう。
一番近いのは、言葉にできるのは、恋だ。
恋だった。
それはイコール、好き。で、でも、イコールはノットイコールで。限りなく近似値で、好き。
イコール怖い。だけど、どうしようもなく惹かれる。
恋だった。

「正峰さんと・・・離れたくない。」
涙が出た。
「離れたく・・・・」
声が、出ない。
彼の顔は、少しだけ、歪んだ。
「馬鹿だな・・・君は。」
「・・・馬鹿・・・じゃ。ないです。」
首を振る。
「正峰さん。」
名前を呼んだら。
涙がこぼれた。
この人がいなくなったら。また世界は逆戻りなような気がした。
また怖くて、仕方なくて。吐き気がするんだ。
それが、私は怖い。

朝が来た。
恐ろしく、朝早くに目が覚めた。
やっと日の光が窓にさしかかるくらいの時間だ。
彼は、昨日の夜深く、静かに泣いた。
きっとずっと一人で、こうやって自分でも気づかないまま泣いていたんだと思う。
もがくような、轟く遠雷を、耳を塞ぎ遮るような。
そんな彼を、垣間見たと思った。
愛しいと、思ったのは、普通の感情なんだろうか。
それとも、異常なんだろうか。

ただ、私は彼の眠る顔を見て、安心した。
一瞬でもいい、何も知らないでいい世界を見せてくれたから。


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