知る世界7

「・・・あ。忘れた。」
思い出した。
明日の朝のパンがない。
「・・・どうしよ。」
朝ご飯、抜いてもいいけれど、その時はどうもそういう気にはなれなかった。
だから2時を回っていたけれど服を着替えて、コンビニに行った。
「子姫。」
声をかけられた。彼から。
「え・・・?・・・あ・・・っ、先生・・。」
心臓が鳴った。
怖いからだ。
あの日、見せた顔を、ふいに思い出した。
銀の話をした時。彼の眼は恐ろしかった。まるでタブーに触れたような。そんな気がした。
「また夜中に出歩いてるのか。」
呆れられた。
「・・・おかえりなさい。」
「・・・君も早く帰れ。」
「・・・明日の・・朝ごはんがなくて。」
「それで夜中に買いに来るのか君は。」
彼の手にあるビールの缶を見る。
「・・・飲むんですか?」
意外だった、
「飲んじゃ悪いか。」
「いえ。」
首を振る。
「・・・帰り、ご一緒してもいいですか?」
「・・・構わないが。」
ちょっとほっとした。先日の彼の鋭さはない。
沈黙のなか二人で歩く夜道は、なんだかとてもくすぐったいような、あたたかいような気がした。
何も言えず、ただ黙って歩いていた。
「・・・子姫。」
「子姫ちゃん?」
二人の人物に、ほぼ同時に呼ばれる。前を見るとそこには銀がいた。
「・・・正峰君。」
「どうしたの、こんな時間に。」
「正峰君も・・・。」
どきどき、していた。内心。だって、すぐ後ろに、正峰さんがいる。
彼のあの殺気を思い出す。怖い。
「あははっ俺は最終逃しちゃって。バイト先から歩いて帰るとこ。」
「危ないよ。」
「大丈夫。治安、普通なんだろ?ここら辺。」
「・・う、うん。」
頷く。早く、この場から離れたかった。
「あれ・・その人は?」
銀が彼を見つめた瞬間、私はぐいっと腕を掴まれ、乱暴に引っ張られた。
「えっ」
体勢を崩しそうになる。だけどそれを彼は受け止めた。
同時に体がぶつかり、ぬくもりがぶつかり、生ぬるい感覚が口元にぶつかった。
体が強張った。
掴まれた腕が痛い。
動けない。
もがけない。
初めて知った変な感覚に、頭がぐらぐらした。
「・・・っ!」
彼が離れてくれたのは、すぐだった。だけど、随分長いこと唇が重なっていたように感じた。
「ま・・っ!」
「邪魔、しないでくれるか。」
彼は銀を見据えて、そう、低い声で言った。
銀は非常に驚いた顔をしていた。言葉を失って呆然としていた。
「あ・・・す、すいません。した。」
銀はしどろもどろ謝って、駈け出した。
私は彼に拘束されたまま、呆然としていた。
ふいに、手に自由が戻り、ぬくもりが体から離れた。
「・・・あ・・・・・の。」
声が震えてた。
「・・・帰るぞ。」
彼は歩き出した。
弁解なんてものは一つもなかった。
「ま・・正峰さん!」
追いかける。
「・・先生!」
「なんだ。」
「今の・・・っ。」
彼は急に立ち止まった。そしてこちらを見た。
「悪かった。酔っていた。」
「・・・飲んでたんですか・・・?」
嘘だと思った。アルコールの匂いなんかしない。
「なんで・・・。」
彼は何も答えなかった。
どうして、キスをしたんですか。
その一言。
言えなかった。
体がまだ震えてた。

家に着くと、彼は何も言わないまま自分の部屋に入って行ってしまった。
私はその頃になってもまだ体を震わせていた。
怖かった。
びっくりした。
初めてのことだった。
思い返してしまう。
人間の唇の感触ってこんなものなんだ。知らなかった。
びっくりするくらい生ぬるくて。柔らかかった。
おなかの下からうわっと何かが這ってきた感覚に襲われた。
その夜、体の震えが止まるのに、しばらくかかった。


「あ・・・。」
あの授業。
「あ。」
あの授業でやはりまた出会った。正峰、銀。
「あの・・・。」
「あっ!ごごめんね、あの。この間。」
「違うの、ごめんなさい。私の方が。」
「やっ!び、びっくりした!よ!」
「私も・・・。」
銀はぶんぶん手を振った。ごめん、と何度も言った。
「いつもあんな感じなの?彼氏。」
「・・・彼氏・・・・?」
「彼氏・・だよね。あの人。」
「・・・・・・・・・・・・。」
返事に困る。
「違うの?」
「・・・えっ・・・」
「あ、もしかして、ちゃんとした言葉もらってない・・・とか?」
「あ、えっと。うん。そういう話、してない。」
「そ、そっか。そうなんだ。」
彼はたじろいだ。
「・・・気を、つけなよ?」
彼は真剣にそう言った。上目づかい。
「・・・え?」
「その。なんか、あの人、社会人ぽかったし。あの・・・もしかしたら不倫、とかかも。」
顔色をうかがいながら彼は言った。
「・・・・それはないよ。結婚してない。」
「わかんないよ!もしかしたら・・・」
「だって、隣に住んでるのは、一人だけだもん。」
そこで銀の眼は私をとらえたまま固まった。
「・・・・・え、あの人が、然さん・・・?」
「・・・ぁ。うん。」
あ、知らなかったんだ。冷や汗が出る。
「あの、さ。」
「・・・え?」
「わ。・・・悪いこと言わないから。別れた方が、いいよ。」
「・・・え?」
別れるも何も、そういう関係じゃない。
「あの人、普通じゃないよ。」
「・・・・・・・・。」
あ、その眼。知ってる。

心が、病んでいる。

そういって人を見る目だ。
「・・・普通・・・って。」
ぽつりと呟いた。
「・・・何?」
「・・・・・・・え?」

キーンコーンカーンコーン・・・・・

授業に遮られて、助かった。
あのままだと、きっと、苦しくなってた。


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