知る世界5

秋を越えそうだ。
私の世界が、少しだけ変わったのを、誰が知っているだろう。
深い暗闇が、どっぷりと眼の前にあっただけの毎日。それを消費していくのが生きることだった。
戦うべき敵は、恐怖で、自分を守ることで精一杯だった。

生まれて初めて、恋をした。・・・恋だと思う。

「・・・先生。」
「なんだ。」
「あの・・・これ。この間の、あの・・・お礼・・」
「・・・こんなことに気を遣うのか君は。」
「す・・・みません。」
呆れた眼でこちらを見る。それでも差し出したお菓子は、受け取ってもらえた。
歳も、何もかも知らない先生に、ひどく魅かれた。
「・・・なんだ。」
「や・・あの。なんでも・・・」
先生はため息をついて自分の部屋に入ってしまった。
安堵する。先生の姿が見えないと、安堵する。
先生は怖い。ぞっとするくらい怖い。それでもどうしようもなく魅かれる。
きっとこれを『好き』だと人は呼ぶんだろう。と、私は考える。
怖いけれど、側に居たい。こんな妙な感情は、もう単純化してしまった方が理解しやすい。
恋だと、思う。


学校が、あまり苦ではなくなった。
知らないことを知る時、やっぱりまだ苦しくなる。人と喋っていると、時々吐き気すらする。
母親が電話をしてくると、無視をする。だけど、その着信音が、耳障りで、電話ごと壊したくなる。
だけど、前ほど苦しくはない。
先生の言葉が、あるから。
救われた。と、思っちゃいけない。否定されたから。
だけど、先生の声で、今の世界は在るんだと、そう思ってもいいですか。
「あれ。」
「え?」
突然見知らぬ人に声をかけられた。どうしよう。苦しい。頭が痛んだ。
もしかしたら知らない私の過去の中の人間かも知れない。知りたいけれど、怖い。知りたくない。
忘れていることを、相手が知らなかったら?また私は病んでいるのだと、あの目で見られたら?
「子姫ちゃんでしょう。ほら、然の隣に住んでるっ。」
「・・・・え?」
「あ、やっぱ覚えてない?あの時なんかすごく辛そうだったからさ。体調悪かったのかなって思ってたんだ。ほら、一度然の家から出る時にあってるんだよ。俺。」
「・・・・・・・・もしかして・・・・お母さんが・・・来た時の。」
「そうそう!わぁ偶然だねぇ。何処行くの?」
「・・・帰宅するんです。」
「あぁそっか。大学此処らへんなの?」
「・・・はい。」
「あ、申し遅れたねっ。俺、木下 創氏。前言った通り然の同僚。」
「・・・お医者さんですか。」
「ん。そうそう。」
電車が来ない。苦しいのは、なくなっていく。なんだろうこの人。
「然、愛想ないでしょうー。」
「・・・・はい。」
「あいっつ昔っからそうなんだよー。だからあんまり気にしないでいいからね。」
「・・・気にしたことは、ありません。」
そんなことは気にしたこと、なかった。
「そっか。良かった。あいつ、難しいところあるから・・・」
顔を上げて、木下という男を見上げた。
「だから、よろしく、頼むよ、子姫ちゃん。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
不思議な人だな、と思った。殆んど初対面なのに。この人はどうしてこんな風に喋るんだろう。
よろしく、って。私に、頼むことなのだろうか。
だって、私は、私は先生に縋りついてしまった人間だ。
そんな人間に先生をよろしくする力があると思うのだろうか。
何にも知らないのかな。そう考える。
だけどこの人の目は、何もかも見えていそうで。
考え無しに、何も知らずに、言う人間じゃないと、何故か確信した。
「・・・私、そんな頼りあるほうじゃ・・・ないですよ。」
「あははっ!そのうち解かるよ。」
「・・・・・・・・・・え?」
「そのうち、解かる。」
「・・・・・・・・・・・・・・・何を・・・・・」
「あ、電車だよ!これ乗るの?」
「あ、はい。」
「俺、準急待つから。じゃあ、またねっ、子姫ちゃん。」
「・・・あっ・・・はい。さようなら。」
そのうち・・・解かる?

何を?

先生のこと。本当に何も知らない自分に気づく。
何が解かるというのだろう。
そのことをずっと考えていると、私は先生という人間を全く知らないに等しいことを再び痛感した。
暗闇の中で転がった。
静かな静寂という音を聞く。
音はしない。
あちら側からは音がしない。
先生がまだ帰宅していないんだ。
時刻は午前1時だった。だけど珍しいことじゃない。
先生は、夜遅くに帰ってきて、いつ出かけるのかはわからない。
知りたいな。そう思った。
先生のことをもっと知りたい。


「あ、あの、隣いいですか?」
大学の教室で声をかけられた。
「・・・構いませんよ。」
見上げると、そこには可愛らしい顔の少年が立っていた。
「すみません。」
カタン。という音を立てて横に座る。
「すみません、ぷ・・プリントとか、配られました?」
「いいえ。まだ、出席も取ってませんよ。」
「よかったーぁ・・・。」
彼は心底ほっとしたような顔をしていた。どうやら慌ててやってきたようだ。鐘はかなり前になっていたから。
「じゃあ、出席とるぞー。」
非常勤講師がそう言った。名前が呼ばれていく中、少年の名前が呼ばれた。
「正峰」
「はいっ!」
心臓が、貫かれた。

「あのっ」
「え?」
思わず、授業後、声をかけてしまっていた。
「・・・あの・・・。」
「・・・どうしたの?」
彼は何も言えなくなっている私に向って微笑んだ。
「・・・話が・・したいんですけど。」
「・・・えと・・・えーっと。」
彼の顔が少し赤くなる。
「い・・いいですけど・・・。俺、その。次体育の授業で・・・。」
「あっ。じゃ、じゃあいいです。すみません。」
謝った。恥ずかしくなる。
「だから、これ。」
「え?」
そっと渡されたのは名刺のようなものだった。
「これ、ここに俺の携帯番号書いてあるから。今日学校授業全部終わったら電話して。俺、次の授業で終わりだから。その後はずっと暇だからさ。」
にこっと彼は笑った
「・・・じゃ・・4限終りに・・。」
「うんっ!じゃあねっ。」
彼はなんの曇りもない笑顔で笑って去ってしまった。
本当はその日、この授業で学校は終わりだったのだが、一時間図書館で暇をつぶし、4限が終わり5分ほどたったころに、彼に電話した。
彼はすぐにやってきてくれて、大学内のカフェに行くことになった。
「で、話って。」
ごくんと、彼は息をのむ。
「あの・・正峰・・・っていう名前なんですよね。」
「あ、うん。苗字だよ。名前は銀。」
「・・・ぎん?」
「変わってるでしょ。」
頷く。
「あの・・正峰・・・君は、然っていう人・・・知ってる?」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
彼は驚いたような顔をした。飲んでいたカプチーノのコップをゆっくりと机に置いた。
「・・・え・・・と。然・・・さん?」
「うん。実は知り合いに正峰然って人がいて。もしかして親戚か何かかなって思って。」
「・・・あー。う、うん。まぁ知ってる。」
やっぱり、と思った。正峰なんて苗字、あんまりない。
「・・・で、然さんがなんて?」
「あ・・・や。然さんのこと・・・聞きたくて。」
「何を?」
「・・・いろいろ。全く掴みどころがない人だから・・・。」
彼はうーんと唸ってから、ため息をついた。
「ごめん。えっと・・・名前・・・」
「あ、日暮です。・・・日暮 子姫。」
「シキちゃん?かわいいね。」
「・・あ、ありがとう。」
「でもごめん。俺、然って人のこと本当はあんまり知らないんだ。」
「え?」
「・・・数回しか、会ったことなくて。」
「そう・・・なんだ。」
「うん。ごめん、お役に立てなくて。」
「ううん。ごめんなさい。変なことで呼びつけて。」
「いいよ。」
にこっと笑った。眩しい。
「子姫ちゃんと友達になれたもん。」
手が、差し出されたので。私はゆっくりとその手を握った。
温かい、手だった。

帰りが同じ方向で、彼とは一緒に電車に乗った。
「へー。然さんって子姫ちゃんの隣に住んでるんだ。」
「うん・・・。」
そこでアナウンスが入る。
「あ、俺次で降りるんだ。シキちゃんは?」
「次の次。」
「へぇ、治安いいの?」
「・・・・普通?」
考えたことない。
「そっか。」
「あの正峰君。」
「ん?」
「然さんって・・・女の人・・・嫌いなの?」
「えっ!女の人嫌いな男っているの?」
「えっわ、・・・わからない。」
「・・・・・。ん、や。分からないな。だって然・・さんだろ。・・・あり得るかも。」
「・・・そうなんだ。」
「うん。だってさ。」
ゴオオという音。トンネルだ。此処を抜けるともう、駅だ。
「あの人って、怖いじゃん。」

聞き間違いでなければ、続きはそう言った。


「昔、人を殴って病院送りにしたって聞いたことある。」
 



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