知る世界3

随分、酷いものだと思った。隣から聴こえてくる物音は。
壁をぶん殴っている。容赦なく。大きな音が時々する。
あぁ、今、何かがくずれたな。舌打ちをする。一体なんの騒ぎだ。迷惑な。
すると、突然異常な笑い声が聞こえてきた。
世の全てが滑稽な喜劇で、足元が全て悲劇で固められた人間のような、笑い声。嘲う。止まらない。
もう立ち上がっていた。
そして、すぐ隣の戸の前に立ち、ぐっとノブを掴んだ。
すぐに気付いた。開いている。なんなんだこの住居人は。
ゆっくりと扉を開いた。そしたらすぐ其処に倒れているのは少女で。

凄まじいと、思った。

眠るその子を自分の部屋に連れていき、布団の上に置いて放置した。
なんでそんなことしたのかは、その時は分からない。だけど後に気付く。
興味がわいていた。この少女に。
どういう生き方をしてきたら、あんな風に壊れられるんだろうか。
自分の人生が平凡だとは思わないし、自分も少しくらい壊れているとは思ってる。
だけど、彼女の狂気のような壊れ方なんてのは、初めて目の当たりにした。
「死にたいのか」
と訊ねた。きっと死にたい、殺してくれ、なんて答えるんだと思った。
だけど答えは、死にたくない。だった。
そこに、吸い込まれた自分がいた。

日暮 子姫の自分に縋りついているこの手をどうしたものか、分からない。
いつもなら無残に振り払ってしまうもの。他人。
なのに、泣き崩れて、どうしたらいい、と問う彼女の手を振り払えなかった。
自分がどうしたらいいのか、分からない。
搾り出した言葉は自分への悲観のみだった。
「なんで俺なんかに、縋り付く・・・」


「然!」
振り向いた。
「よっ。元気かぁ?」
「・・・心底気分が悪い。」
「あれ!どうした!?」
うんざりした。
「木下、お前はなんでいつもそんなに五月蠅い。」
「五月蠅いとは失礼なっ!俺はいつもテンションの低いお前を励まそうとですねー・・・っ」
「結構だ。」
「あら、酷い。大学時代からの友達だろぉー。」
「友達と思ったことはない。」
「ひ・・・っひどすぎるでしょ!!!」
性懲りもなく付いてくる。この男は木下 創氏。同僚の一人だが、大学の時からの知り合いで、しょっちゅう付きまとってくる。非常に迷惑な男だ。
「・・・木下。お前は女が得意だったな。」
「え?なに、得意って!」
「苦しそうにして、助けを求められたら、どうしたらいい。」
「・・・・・・・・・・・・・・へ?」
「・・・なんだその面は。」
「って!え!お前に女が出来たの!?うそっすごい!信じらんない!」
「黙って答えろ。クソ阿呆。」
面倒くさいこと、この上ない。

「ねぇねぇどんな子っ?まだ帰ってこねぇの?」
「知らん。お前は帰れ。」
「うわっひっど!久しぶりに早く帰れて、酒付きあってやるっつってんのに!」
「お前と飲んでも旨くない。」
ピンポン、と鐘が鳴った。
「・・・はい。」
そわそわする木下を無視して、玄関へと歩いていき、戸を開いた。
其処にたっていたのは、知らない人間だった。
「・・・なにか。」
「突然すみません。ちょっとお伺いしてもよろしいですか。」
「・・・セールスなら必要ありません。」
「違います。その・・・此処に住んでる娘のことで・・・。」
指をさす。あぁ、彼女の家だ。
「彼女が何か。」
「その・・・最近、どうかしたんですか?」
「・・・壁でも殴られましたか。」
「え?・・・壁・・・?」
その隣に住んでいる人間ではないらしい。
「いえ。彼女が、最近、なんなんですか?」
「・・・いや、その・・・。連絡がずっと、つかないもんですから。」
「・・・失礼ですが、御関係は?」
「・・・母です。」
母。・・・にしては、随分ふけていた。
「その・・・何か変なこと、言ったり・・・」
「・・・開いてませんでしたか?家。」
「え?!」
「インターホンを押したって、出てきやしませんよおそらくは。鍵が開いてるかもしれない。開けてみたらどうですか。」
「そんな・・・っ、もしかしたら居ないかも知れないのに・・・開けるのは」
母、の言葉ではないな。
「・・・あの子・・・御迷惑かけたりしてませんか。・・・情緒不安定で・・時々おかしなこと言ったりするんです。ものすごく苦しそうにしてたり、全く喋らなくなったり・・・。」
「・・・直接本人に訊いたらどうですか。はっきり言って・・・」
「はぁいスミマセンっお母さん!」
がし!後ろからいきなり首に腕を回された。木下だ。
「いやぁ、娘さんの様子がおかしいなんて、気になりますよねぇ。何か御実家でも問題あったんですか?」
「・・・あ・・あの。」
「あぁすみません、申し遅れました。こいつの同居人の木下です。」
「・・・あ・・どうも、娘がお世話に・・・」
「いいえぇ。」
にこっと笑っているが、首に回っている手は緩まない。

一体、俺にどうしろと言うのだろう。

「随分、複雑な環境に置かれてる子も居るもんだねぇ。」
母、が帰ってから、木下が感心したようにいった。
「関係ないだろう。俺達には。」
「まぁね。っても、見てみたくなっちゃったよ。なんだっけ、子姫ちゃん?」
「・・・見ても普通だ。」
「どんな子?可愛い?」
「・・・普通だ。」
「ふーん。で、なに。本当に情緒不安定なの?」
「・・・さぁな。」
「んだよ、全然知らないんじゃん。」
「お前には言いたくないだけだ。」
「え!?何!え!ちょッ!なになに?!本当に何かあったの?!駄目じゃん大学生に手なんか・・・」
「お前と一緒にするな。」

言わない。言うものでないだろう。
この間。彼女はまた壁をぶん殴った。それは執拗に続き、耳を不快な気分にさせた。
立ち上がり、玄関にいき、外へ出て、彼女の戸を開いた。
その時同時に聴こえた『何かをぶつ音』は、すぐ側で聴こえていた。
「・・・またか・・・君は。」
呆れて、いっそ怒鳴ってやろうかと思った。その時。
熱い身体が、自分にぶつかって、細い手が、自分にしがみついていた。
「お・・・い・・・」
その時、どうしてやればいいのか全く分からなかった。
俺は、『女』は嫌いなんだ。振り払ってやってもよかった。
だが拒絶しようが、ののしられようが。此処で泣いてやる。そういう意思がそこにはあるようで、振り払うことは出来なかった。
「おい・・・子姫。」
「・・・どうしたらいいんですか、先生。」
突然、彼女は投げかけてきた。
「どうしたら、怖くなくなるんですか・・・っ」
「怖い・・・?」
「どうやったら、知らない事が、なくなるんですか!」
叫んだ。彼女の心の奥にあるであろう、黒くて大きな穴の正体が、見えそうで見えなかった。
彼女は泣いて、震えた。
「・・・俺にはどうにもできん・・・。」
突き放した。
「知らないことなんてのは、一生付きまとってくるもんだ。人間は一生学ぶものだ。」
抱きしめ返すことなんて、できない。
「なんで俺に縋り付く。」
だから、突き放した。
「俺なんかに、縋り付いても仕様がないぞ。」

「じゃーなぁ。また明日。」
「明日は非番だ、せいぜい仕事しろ。」
「あぁ!ひ、・・・酷い!」
ガチャン。玄関の戸を開けて、木下が外へ出たと思ったら、ノブを持ったまま動きを止めた。
「・・・どうした。」
「・・・こんばんは。」
こちらを見ずに木下はにこっと笑って言った。
あの子が居るんだと、すぐに分かった。
「木下・・・。」
「さっき、お母さんが見えてたよ。」
「木下、やめろ。」
木下は玄関から俺を出そうとしなかった。
「子姫ちゃんだよね?」
「あなたは、誰ですか。」
彼女の細い声が聞こえた。
「あ、ごめんごめん。俺、此処に住んでるやつの同僚。」
「・・・お母さんは、なんて。」
「心配していたよ。」
「・・・そうですか。」
彼女の声は消えてしまいそうで。
「・・・話、したんですね。あの人と。」
そして、ガチャン、と言う音がした。多分、部屋に入ったんだろうと思った。
「・・・うっわー。び・・・びっくりしたぁ!」
木下が突然こっちを見て言った。
「お前、何してんだ。」
「や・・・あのさ!や、あの子・・・何!?超綺麗な子じゃん!びっくりして、テンパッちゃったよ!」
「ふざけんな。」
「然。」
突然俺のスーツを、木下は掴んだ。真面目な顔をしている。
「・・・あの子、本当に、大丈夫なのか?」
「・・・見ての通りだろう。」
見ての通りだ。

もう、今にも崩れ去りそうな、儚い少女だ。


ガチャン・・・
「子姫。」
戸は、相変わらず、鍵がかかっていなかった。
「聴いたんでしょう。あの人・・・すぐ喋るから。」
黙った。
沈黙だけでも、『答え』にはなるだろう。
「・・・周りから同情されれば、私が救われるとか、慰められるとか、そういう風に考えてるんです。」
「同情なんざしてない。」
「嘘つき。」
彼女はこっちを見ずに、鋭く言った。
「だったら、此処には来ないでしょう。何しに来たんですか。」
「何も。」
何もする気なんてない。
「ただ、どんな風に、君が苦しんでるのか。見に来ただけだ。」
「・・・・・・・はっ・・」
彼女は短く笑った。
「それで・・・?ご感想は。」
「特にない。ただ、夜な夜な壁を叩かれては、大変だ、と思うだけだ。」
「・・・先生。」
彼女はゆっくりと振り向いた。
あぁ、この時、全身がぞっとしたのを覚えてる。
「先生も、十分、壊れてますよ。」
闇の中にうずくまったままこちらを見る彼女が、美しくて、心底ぞっとした。
「・・・思い、出せないんです。どうやったって。」
彼女は再び額を地面にくっつけた。
「殴りつけてみたって、覚えてる記憶の一番古そうなところへ行ってみたって、死ぬ直前まで行ける薬を飲んでみたって・・・っ!」
あぁ、それでだったのか。
「どんなことしたって・・・思い出せないんです!」

「記憶がないんです。あの子。」

記憶障害なんてものは、外的損傷、もしくは精神的ショックによって引き起こされる。
あの母親の言葉を辿ると、それはおそらく精神的ショックによるものだろう。
ただ、この手の記憶障害は、徐々に記憶が自分の身体に戻っていくものが多く、時間をかけて治療していくしかない。
だが、彼女は記憶を失ってから、もう、7年たっているそうだ。月日が流れていくにつれ、彼女の精神は不安定になっていく。
自分の根っこが見えない恐怖。それ故に生まれる猜疑心はしぼむことを知らず。
知らない、という事に、極度の恐怖を感じるのだ。
「子姫」
一体俺に、どうしろと言うのだろう。
「俺の名前、覚えてるか。」
彼女も、彼女の母親と名乗る者も。
「・・・正峰・・・然・・・さん。」
「職業は。」
「・・・医者・・・。」
「他は。」
「・・・知らない」
「当たり前だ。教えていない。」
手をかけていた。
「それで、君はその殆んど知らない俺のことを、全部知る必要があると思うか。」
「・・・ない・・・です。」
「その程度だ。知らないことなんて、どうでもいいことの方が、ほとんどだ。何についても同じだ。自分についても。他人についても。学んでいる事についても。全てが絶対に必要なものじゃない。」
「・・・・でも・・・」
「だからって、知ろうとしないのは、莫迦のやることだ。」
前髪に触れた。苛っとするほど、さらさらだった。
「君は、知ろうとしてるじゃないか。何を怖がる。そのままでいい。焦るな。どうでもいいかもしれない情報に憑かれるな。ただ、生きていろ。」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「・・・言ってる事が、支離滅裂だなクソ。・・・言いたいことは分かるか。」
「・・・はい・・・」
その時の彼女の眼から落ちた涙は、一つの濁りもなく、震える身体は、恐怖で震えているのではなかった。
驚いた。心底彼女を美しいと、見蕩れてしまった自分に、驚いた。





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