知る世界26

「恭子。」
呼ばれて振り向いた。
「然。」
にっこり微笑んでみせた。
然もにっと笑った。
今思えば、この無愛想な男が、ずいぶん笑うようになった。
ずいぶん。愛らしく。
「次の時間授業か。」
「ううん。空き。然は?」
「休講だ。まったくあの教授は休みすぎる。」
「ふふ。普通、喜ぶところよ?それ。」
「・・・つまらん。」
「あははっ!真面目ね。」
なでた。然の髪の毛。やわらかい。
ボンのことを思い出すほど。似てる。
「・・・。」
「どうした?」
「ううん。然。じゃあカフェにでも行かない?今いちごフェアなのよ。」
「この時期にか。」
「そ。」
「まずそうだな。」
笑ってしまう。
おかしい。この男と一緒にいると、笑わされる。
かわいいと、思ってしまう。
愛しいと。

裏切るために、近づいたのに。

母があの真実を吐いたのは、私が2年生になった時のことだった。
「ごめんなさい。」
母は謝った。
私は、何も言えなかった。
ぶん殴ってやろうかと、一度思った。
騙されてたんだ。私は。ボンは。
あの頃の私は、潔白でありたいという意思がとても強い人間だった。
私は白でいたい。
正義でありたい。
そして、弁護士として罪を犯してしまった人を、償わせる道へと向かわせる仕事がしたい。
そういう、潔癖症なところがあった。
だから、この母の裏切りは脳を揺さぶった。
汚いとも思った。
もうこの家から出て行ってほしいとさえ。思った。
でもボンは?
ボンはまだ小学生だ。
母のことを愛してる。
この女を、失うわけにいかない。
どうすれば・・・。
この状況。明らかにこちらに分が悪い。こちらが、不利だ。
裁判になれば、きっと母親が負ける。
「・・・・・。お母さん。その息子って・・・誰。」

そうして見つけた。
偶然なのか運命なのか。
その男は私の大学の一年生で、私は迷わず近づいた。

そして。

「然。あなた進路はなんだっけ?」
「医学部の人間に訊くか。」
「あら。ありえるわよ。ほかの道も。」
「・・・恭子は。」
「私?・・・私は・・・。」
「弁護士か。」
「・・・ううん。」
首を振った。
「・・やめたのか?」
「うん・・・。ちょっと。私には歩けない。って思って。その道は。」
「・・・・・そうは思わないが。」
「ふふ。」
笑った。
「違うの。その道をたどるべき資格を持つか、どうか。って話なのよ。」
「・・・・・・・・・?」
私は。汚れるのだから。
今から。
これから。
傷つけて。
汚して。
ぐちゃぐちゃにして。
それでも勝ち取るのだから。甘い蜜を。

然と、キスをすること。
はじめは抵抗があった。
別に初めてのことじゃない。
キスなんてのは。誰としたっておんなじだ。
なのに。違った。
あの男とだけは違った。
嘘みたいに熱くて。嘘みたいに優しいキスだった。
繋ぐ手は暖かくて。
抱きしめる体は熱くて。
耳をうわっとさせる声は深くて、優しくて。

こんなにも体を支配していく。

怖いとさえ思った。
なんのためらいもなく。彼と寝たとき。
怖いとさえ思った。
このまま私。この男を心底愛してしまうんじゃないか。
だめだ。
だめだ。
だめだ。
憎まなければ。
憎まなければ。
意味がない。

愛さないで。
そんな風に呼ばないで。
抱きしめないで。
傍にいたいと思わせないで。
然。
「愛してる。」
そう言って、キスをしたのは、私だった。
恐ろしいほど、惹かれた。

だから。
怖くなって、私は、だから。
姿をくらませた。
あの男には何も言わずに。
悪になるために。
道を、間違えるために。
 


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