知る世界20

「異常だね。」
木下はこともなげに言った。微笑んでいる。
「お前は本当に医者か。」
「医者だよ。でもお前は患者じゃない。」
「・・・。」
「俺は先生、じゃないだろ?」
「・・・・・・そうだな。」
木下は俯いた。口元は笑っている。
「愛しいと思うよ。」
愛しい。
「俺は、お前たちが、愛しいと思うよ。」
「・・・どういう意味だ。」
「お前たちが出会ったこと。神に感謝してるんだよ。」
「・・・何言ってる。お前何教だ。」
「あははっ。まぁまぁ。おいといて。俺はね、然。」
木下は真面目な顔をして言った。
「然と子姫ちゃんが好きだよ。それで、恭子さんが嫌い。それだけだ。」
「・・・・・そうか。」
まったく。意味が分からないしゃべり方をする男だ。


彼女が腕の中で泣いていた。
声を上げず。震えずに。
銀の涙に戸惑って。湧き上がる感情を流すように。
泣いていた。
時々、俺の名前を呼んだが、掠れるような声だった。
求めながらも、拒絶する。そんな声だった。
心が、ぞくっとした。


帰り道、もう人気のない駅を出たところだった。
「・・・ねぇ。」
ぞくっと、する声。
後ろから。
「・・・・・・・・・・。」
振り向いた。
「ねぇ然。」
恭子がいた。
「何してるの?」
口元が、笑っている。
木下のそれとはまったく異色の口元だ。
「早く、やってよね。然。」
「・・・恭子。」
「ボン。昨日泣いて帰って来たわ。」
「・・・泣きながら帰ったのか。」
「まさか。ボンのことなら背中見ただけも何でも分かるわよ。あの子、嘘みたいに素直だから。」
それには同意する。
「ねぇ然。やり方、忘れちゃったの?早くあんたの汚い手からあの女の子を放してあげてよ。」
「・・・・お前には関係ない・・。」
「あはっ。」
笑う。
「変態。今度は未成年に手を出すの?」
「お前は!」
声が大きくなる。
「お前は!何がしたいんだ!俺にどうしてほしい!」
「決まってるじゃない。」
にやっと笑う。
「あんたに不幸になってほしいのよ。」
息が苦しくなる。
「望むのは、あんたが幸せにならないことだけ。」
「・・・・・・・・・・・・・。」
睨んだ。
「・・・苦しい?然。いい顔ね。」
頬に触れられた。びくっとする。怖い。
「・・・お前も。」
「え?」
「お前も、苦しんだか?」
「・・・・・・・・何・・・。」
「お前も、やつれるほど苦しんだのか?」
「・・・ッ!誰が!」
恭子は大きな声で叫び、手を放した。
「馬鹿にしないで!あんたなんか・・・!」
ばしっ!
恭子が振り上げる手をつかんだ。
恭子の顔は少しだけ歪み、言葉が出ないまま俺を睨んだ。
細い手だった。
「・・・もう、やめろ。」
「命令する気?あんた・・・立場分かってるの?」
「・・・恭子。」
「・・っ!そんな風に!名前で呼ばないでよ汚らわしい!」
泣き叫んだような声だった。
涙は流れていないけれど。
「あんたさえいなければ良かったのよ!あんたさえいなければ私は幸せだったの!」
手を引き抜こうとする。だが、離さない。
この手で殴られるのだけは、ごめんだった。
「大っ嫌い!」
俯いたまま叫んだ。
手の力が抜けたので、俺は恭子の手を放した。
するりと手を下ろし、彼女は俯いたまま、俺に背を向けて歩きだした。
「・・・・恭子。」
ずくんずくん。俺の心臓が変な音を立てて泣いていた。
「・・・呼ばないでって言ってるでしょう。」
恨めしそうな声だった。
「・・・あの頃みたいな呼び方で・・私のこと、呼ばないでよ!」
それだけ叫ぶと彼女は走り出した。
「・・・・・あの頃・・・?」
その言葉を、理解できなかった。
いったいいつのことを言ってるのだろう。
俺は、胸を押さえつけ、動揺している心臓を慰めた。
そして深呼吸をして歩きだす。

オレンジの月が出ていた。


この日以来だった。
この日以来、俺は恭子を見なくなった。 


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