知る世界2

「また会ったな。」
「・・・こんばんは。」
彼に会った。深夜。
「なんでこんな時間に此処に居る。」
黙る。
「・・・大学生はいいな。」
「飲んでませんよ。」
男も黙った。
街燈の下を通る。
「あなたこそ、良い御身分ですね。」
「何がだ。」
「こんな時間に帰ってくるんだったら。遊んで帰ってきたんでしょう。」
彼は黙ったまま、歩き続けた。
深夜、午前2時。
「おやすみなさい。」
「おやすみ。」
隣の戸の鍵を開ける音がした。
私は取っ手に手をやった。
ひんやりして、目をつむった。
「・・・ごめんなさい。」
「何がだ。」
「何でもありません。」
戸を引っぱった。怖かった。これ以上一緒にいるのが怖かった。
「子姫。」
向こうの戸が開く音が聴こえた。
「よく寝ろよ。」
閉じる音が聴こえた。

息が止まるかと思った。


学校が始まろうとしている。
また毎日、消費するだけ。変わり映えの無い世界。知らない事だらけの波に押し込められてしまう。
私は、また苦しくなってしまう。逃げようと、思ってしまう。
息が切れる音がする。目眩がする。逃げたい。消したい。
「痛・・・・」
爪が、腕に食い込んでいた。
気付けばまた夜だ。眼を覚ますとまた夜だ。昨日の午前2時は、何時間か前の事のように感じるのに。
馬鹿馬鹿しい。
ずるりと起き上がった。冷たい床の上。
―――いくら壁を叩こうが、叫んで狂い、叫ぼうが知らん。
私だって、知らないよ。私だって、知らない。こんなもの。

心が病んでいる。

誰かが言った気がする。
簡単な言葉だな。そう思った。
何処が病んでいるって?
心って何処だろう。
あなたはその何を知っているんだろう。
心が身体の何処にあるのかも分からないのに。
そんな言葉を吐き出す人間に言いたくて仕方がなかった。
唯の客観的描写に重みを求める方が莫迦だけれど、何も知らない人間にはもう何も言われたくない。
0でいい。要らない。
「君は、何をしている。」
「あなたこそ。何をしているんですか。」
男はため息をついた。
「いつもこの時間から出かけるのか?」
「・・・さぁ。」
玄関の戸を開けると彼が其処を通ったところだった。
「眠れないのか。もしくは、夢遊病なのか。」
「どちらでもないです。」
あの眼で見られてしまうかもしれない。
『心が病んでいる』と、眼がそう言うんだ。
「・・・来い。」
「へ、あ。」
ぐっと手を引っ張られた。ひやりとした彼の手は、大きかった。
「やめて・・・っ」
「何もしない。薬をやる。飲め。」
「く・・・」
「あの薬じゃない。あんなもの、持ってるわけがないだろう。」
強引に、彼の家に連れて行かれてしまった。
怖かった。眼は怒っていたし、声は低くて唸るようだ。だけど、あの眼じゃなかった。
「睡眠薬。」
「あぁ。君にやると、いっぺんに服用されそうだからな。見といてやる。今飲め。」
「・・・でも今飲んだら・・・」
「すぐに眠くなって倒れるわけじゃない。漫画の見過ぎだ。」
見たことないけれど。
「・・・はい。」
白い錠剤を拾って、口元へ持っていった。だけど、飲みたくなかった。吐き気がした。
この間の薬の感覚が、身体に蘇える。
「どうした。」
「怖い・・・」
「・・・・・・そうか。」
男はこっちを見ずにそう言って、黙り込んだ。
沈黙だけが続いた。時間は午前2時半。辺りの音はしない。
「大学生だったな。」
「はい。」
「何を専攻してる。」
「文学。」
学校。そうだ。学校が始まる。余計目眩がした。
「あなたは。」
「俺が大学生に見えるのか。」
首を振る。
「医者だ。」
「・・・あぁ・・・。」
「なんだ、あぁって。」
「だから・・・こうやって面倒見てくれるんですね。」
男は一寸沈黙し、そして言葉を発した。
「勘違いするな。そんなものは関係ない。ただの、興味本位だ。」
きょうみほんい。
聴き慣れない理由だった。興味本位?哀れみ、と答えなかった。
それよりもこんなに単刀直入にこう答える人間が居ただろうか。
「私の何処に興味を持ったんですか。」
「・・・。」
彼は黙った。私の指の間にある錠剤が、溶けそうだ。
「何処が、壊れてるのかな、と。」

何処が、壊れているのか?

「・・・じゃあ、何処が壊れてるか判ったら。」
私は錠剤を口の中に入れた。苦い。
「直してくれるんですか、お医者さん。」
その後の事は、覚えてない。


学校が始まってしまった。
履修登録を済ませた。所詮選ぶというほど選べる授業がないのが一年生だ。
どうでもいいような『一般教養』にもみくちゃにされて、毎日が過ぎていく。
学校は辛い。
分からない事だらけだから。
頭は悪くなかった。
だけど、陳列される情報の何処までが『一般知識』で知っているべきものなのか、何処からが誰もが知らない『新しい知識』なのかが分からない。
そういう毎日を過ごしていると、正直、参る。
そしてまた。今日も自分の苦しい喘ぎ声を聴く。悲しいくらい、苦しい。
「日暮さん。地元、**だよね。高校、何処だったの?」
授業中に問われた。
「須藤・・・。」
「須藤?あぁ知ってる!私、南よもぎ。同じ学区じゃん。じゃあ中学は?」
「・・・梁井。」
「あ、本当に?じゃあさ、吉岡ってやつ居なかった?!私高校一緒で・・・」
言葉に詰まる。
「はいっ!ディスカッションの時間終わり!」
先生の声に助けられる。
こういう時、私の頭の中は黒い線をグルグル描いたような物でいっぱいになる。
昔の話をすると、されると、面白いくらい頭が混乱する。
そしてそういう夜は、必ず。

ドン!
壁を殴った。手が痛い。握る拳が痛みで壊れる。息が切れる。
発作に似たこの息切れは一体なんなんだろう。
何処が壊れてるんだろう。
あの男の眼を思い出す。
『死にたいのか。』
死にたくない。
ドン!
また、ぶん殴った。今度はもっと硬いものを。
ガチャン。そしたら別の音がする。
「・・・またか・・・君は。」
機嫌の悪い声。
その声に向かって、どすんと体当たりをした。
「お・・・い・・・っ」
「・・・っ・・・う・・・っ」
「・・・おい。」
拒絶しようが、ののしられようが。此処で泣いてやる。そう思った。頭が痛いくらい。そう思った。
「おい・・・子姫。」
「・・・どうしたらいいんですか、先生。」
「?」
「どうしたら、怖くなくなるんですか・・・っ」
「怖い・・・?」
「どうやったら、知らない事が、なくなるんですか!」
涙があふれた。心臓が震えてる。男のスーツにしがみついてる自分の手が、震えてる。
その胸の奥にあるはずの心音が、私には聴こえなくって、温かいはずの人の身体にすら、体温を感じなかった。
「・・・俺にはどうにもできん・・・。」
突き放されてしまった。
胸がひどく痛んだ。
「知らないことなんてのは、一生付きまとってくるもんだ。人間は一生学ぶものだ。」
彼は私を絶対に抱きしめかえしたりしない。
「なんで俺に縋り付く。」
彼は諦めたような声でそう言った。
「俺なんかに、縋り付いても仕様がないぞ。」
彼は、俺なんか、と言った、

思えば最初から。
私たちは随分異様だったような気がする。
だけど最初から、縺れるように惹かれ、もがくように求め、拒絶した。
そんな気がする。

私は、彼のことを好きになっていた。
好きになっていた、のかは。分からない。
だけど、きっと言葉にすればそれが一番適切な感情だったと、そう思う。



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