知る世界

自分の息の音が聴こえる

「はぁ・・・っはぁ・・はぁ・・・ぜぇ・・」
喘いで、無様に苦しんでいる。
あぁそっか。そうだ。死ぬんだ。死ぬんだ私。
やっぱり、死ぬんだ、私。
「あは・・ッ・・・。」
笑いが込みあげた。どうしよう。お腹が引きつるほど滑稽だ。
こんな風に、死んでしまうなら。どうして今まで生きていたんだろう。
莫迦だな。莫迦だな。莫迦だ。
「アハハハハハハハハッ・・・!」
ドン!壁を思いっきり殴っていた。拳が痛いような気もする。
ぜぃゼィ言ってる息の音。甲高い大きな声の音。どっちが自分の感情なんだろう。
苦しいの?楽しいの?悲しいの?嬉しいの?

私、何?


ガチャ・・・
戸が開いた。ゆっくりと戸が開いた。


私はそれからの事、知らない。
大したことじゃない。それまでの事も、その殆んどを知らないんだ。
次に目を覚ました時、一番に目に入ったのは、どう考えても知らない風景だった。

「・・・・・・・・此処、何処。」
呟いた。目だけを動かして天井の風景を追ってみる。知らない。どう考えても知らない。
音がしない。自分の息の音も、笑い声も。面白いくらいの沈黙しか聴こえなかった。
思い出そうとしてみた。なんで、私は、此処にいるのか。
起き上がった。そして辺りを見渡す。部屋。殺風景な部屋が見えた。和室。白い布団。
同じアパートの部屋の一つだと分かった。何処となく自分のそれと似ているのだ。
だけど。誰の部屋?その答えは容易に得られそうになかった。少なくとも物色しなくては。
足で立ってみた。そして和室を出る。誰もいない。何だ此処は。そう思った時だった。
「う・・・ッ」
酷い、吐き気が襲った。同時に頭をぶん殴られるかのような頭痛。目眩。手が震える。
「・・・・ぁ・・・っ」
震える体を叩いて走った。
バタン!
トイレへ駆け込んで、そこで動けなくなってしまった。涙が出ていた。
あぁ、私、死んでないじゃないか。
また、目の前に暗闇が覆った。意識が無くなっていくのが分かった。不思議な感覚だった。

「当然の結果だ。」
男の声で眼が覚めた。ズキン、とする頭を持ち上げて、ゆっくりと振り返ってみた。
「何処で手に入れたかは知らんが、あんなもの、服用する阿呆が何処にいる。」
後ろに男が立っていた。睨み付けるような目で見下ろされていた。
あぁ、この男。知ってる。
起き上がろうとした。頭を押さえつけて、痛みを忘れようとした。
「立つな。立てる状態じゃないんだろう。」
「ぅ・・・・ぁ・・・」
「まともにも喋れんじゃないか。」
舌が回らない。
「覚えているか?昨日の事。」
男ががしっと腕を掴んできた。怖い。怖くて手を思わず引っ込めようとした。
だけどその反動で私の身体は完全に男に引き寄せられ、立っているんだかいないんだか分からない状態になった。
「薬の名前は知ってるな。」
「し・・・っ・・・」
「あんな依存生の強い麻薬に手を出してるとは、近頃の大学生も随分洒落た真似するんだな。」
「・・・っぁ・・なして・・・ッ!」
もがこうとした。だけどより強く腕を掴まれただけだった。
「脱水症状起こして、床に倒れてた。」
「・・・たし・・・は・・っ」
「死にたかったのか?」

この人は。怖い。

隣に住んでいる男の人だった。
名前なんか知らない。挨拶もしない。
だけど、時々見かけることがあった。
だから、顔は知っていた。
その初めの印象から、彼は怖かった。
ぞくっとする。
どきっとする。
鋭い眼が。黒い髪の毛が。長い前髪が。潔癖そうなその身なりが。
全てを突き放していそうで。
強い姿が怖かった。

「寝ておけ。」
布団に転がされた。
「気持ち悪いなら、この桶に吐け。汗がすごい。脱げるなら脱いで薄着になれ。」
「さわ・・・らないで・・・っ」
やっと言い切れた。一つの言葉。
男は、一瞬動きを止めて、私を見た。
ぞっとした。怖い。殺られてしまいそうだ。身体が緊張した。
「言われなくても、『女』なんか、触らない。」
そこでまた、闇が目を覆う。

「うっ・・・う・・・っゲホ・・・っ!」
また、自分の息の音がする。心臓の音まではっきりと聴こえる。頭がグラグラするのだ。
苦しい。
真夜中に目が覚めてしまった。
暗闇の中だ。
立てない自分に絶望する。
見えない。
此処は何処だろう。一体世界とは、何処なのだろう。
「苦しいのか。」
「!」
暗闇の中で誰かの声がする。あの男だ。
「来ないで・・・っ」
見えないけど、腕を振り回して拒絶した。
ため息が聞こえた。
「来ないでと言われても、夜中に近くでぜぇぜぇやられてたら、寝るに寝れない。何処に行く。その身体で。」
「帰る・・っ」
「帰る所があるのか」
「横・・・っ私の・・・家・・・っ」
「帰ってどうする。」
「う・・っげ・・・っげほ・・・っ」
むせた。苦しい。
「野垂れ死にたいのか。」
「死にたくない・・・っ!」
叫んだ。男は急に質問をやめた。
「・・・だったら此処に居ろ。」
それだけ言って。彼は何も言わなくなった。私は、動けないままその場に倒れた。


夜が明けて、目を覚ました。
「・・・・・・・・・。」
「起きたのか。」
無言で彼を見つめた。初めて光の中で彼を見た気がする。
「身体は。」
「平気です。」
平気とは程遠い顔をしていたに違いない。男は顔をしかめた。睨まれたとしか思えない程。
「名前は。」
「・・・隣に住んでるんですよ。」
「知らん。」
「・・・日暮・・・子姫。」
「シキ?渋い名前だな。」
男は表情一つ変えずに言った。
「・・・あなたは・・・。」
「隣に住んでるんだ。知ってるんだろう。」
知らない。
彼の認識なんて、『怖い人』で十二分だった。
「・・・知らないです。」
「知らなくていい。」
「・・・狡い。」
「狡い?」
にっと男は笑った。ぞっとした。
「どんな時でも、利用される方が悪い。騙される方が悪い。覚えておけよ。女はいつもそうだ。そう言って逃げる。卑怯な、言葉を使う。」
「・・・男だって・・・同じだと、思います。」
「・・・そうだな。そういう人間もいる。」
ふっと男は笑って立ち上がった。
「俺は出る。お前はもう帰れるか。」
「・・・帰れます。」
「そうか。じゃあな。もうあの薬は使うんじゃないぞ。二度目はない。次は助けん。見殺しにする。」
「・・・・・・・・。」
「いくら壁を叩こうが、叫んで狂い、笑おうが。知らん。」
「・・・・・・・・・ありがとうございました。」
頭をさげて、重い玄関の扉を開き、私はその家を後にした。

これが私と彼の出会いだった。


正峰 然。
それが彼の名前だった。ポストを見て、知ったことだった。
その後彼とは会うこともなく、私は過ぎていく大学一年の空虚な夏休みをただ突っ立ったまま消費していった。
だけど、時々吹く夏の暑い風が、うわっと心を焼いた。
その度にあの日のことを思い出す。
正峰 然という男の鋭い眼を思い出す。
助けてくれた人間に違いないのに。怖くて仕方が無かった。
そういえばあの時、どうして私を助けたんだろう。わざわざ部屋にまで、きっと入って来たんだ。
そして彼の部屋に運んで応急処置をしてくれたんだと、想像してる、けど。
あの人はそういうボランティア的な手助けをするタイプだろうか。
偏見で言うと。否。

夏がくれて、ひぐらしが鳴きだした頃。もう一度彼と話すことになる。

「あ。」
足を止めた。彼は振り向いてこっちを見た。
「あぁ。生きていたか。」
「い・・きてますよ。」
「そうか。めっきり見んからな。死んだかと思った。」
こっちの台詞だった。
一緒に階段を登る。横目で見るスーツ。この潔癖な感じが、苦手だった。
「親と暮らしてるわけではないだろう。」
「違いますよ。」
「一人で、あの部屋に?」
「悪いですか。」
彼は黙った。
「贅沢だな。」
「・・・ただの、1LDKじゃないですか。」
「大学生独りで住むには、大き過ぎるだろう。」
私は、早く家に帰りたかった。なんだかこの人と話してると、おかしい。
吸い込まれそうになる。
「よっぽど親が甘やかしてるんだな。」
吸い込まれてしまいそうになる。
「・・・・・・・・・・・・。・・・どうした。」
彼は振り向いた。立ち止まった私のほうを、見る。
「・・・甘やかされてる、なんてこと、ない。」
「・・・そうか。それは、失言だったな。君が周りを知らな過ぎるだけだった。」
かっとなった。顔が熱くなるのが分かった。
「これが、・・・自分が要らない人間だっていう証でも?」
「・・・・・・・・・・・なに?」
私は彼の顔を睨んだかもしれない。
その後、私は駆け出して彼を抜かし、自分の部屋に飛び込んだ。
最低だ。こんなのは。
涙が落ちた。
「コラ。」
ガチャン。
「ひゃっ!」
玄関は、躊躇無しに開けられた。
ドアが背中にぶつかった。
「なに・・・っしてるんですかっ!」
不法侵入だ。
「あんな言い逃げは無いだろう。」
「な・・いとか、ありとかっ!あなたには関係ありません!」
「悪かった。」
「へ?」
彼の眼が真っ直ぐ私に突き刺さる。
ぞっとする。どきっとする。そんな眼が。
「悪かった。決め付け過ぎた。」
「・・・い・・・いえ。」
「・・・女はすぐ泣くな。」
「べ・・つに。女だから泣いてるわけじゃないです。」
「そうか。」
彼の手が、おもむろに頭に置かれた。
驚いて、体を仰け反りそうになった。
「もう、使ってないんだろうな。あれは。」
「・・・使ってません。」
「そうか。」
手を放して彼は一歩下がった。
「じゃあな。」
そのままふいっと出ていってしまう。
「・・・正峰さん!」
その背中を呼び止めていた自分が居た。
「・・・なんだ。」
「あの・・・、この間。」
ごくん。
唾を飲む。
この人の目は鋭いけど。
なんて整った顔立ちだろう。怖い。
「・・・ありがとう・・・ございました。」
「・・・あぁ。いい。気にするな。」
行ってしまった彼の声。耳に残る残響。

ひぐらしが泣いている声が耳障りだったこの日。
私は、吸い込まれてしまったのかもしれない。




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