私は塔を立てる。塀を築く。
僕は塔を立てる。塀を築く。
君は塔を立てる。塀を築く。
そしてその塀は何処までも空へ向かう。そしてその塔は、何よりも巨大にそびえ立つ計画の段階にある。

時に住民を除外する。時に侵入者を削除する。時に小さな塔ごと世界を切り取る。
そして僕らは世界を作っていく。


1,
ピアノが鳴る。美しく調律されたグランドピアノが鳴る。芯から音が鳴る。
ベートーヴェン、ピアノソナタ八番op.13『悲創』第一楽章。悲しくも鋭い。ハ短調。
指が踊る。白と黒をはじく。髪が揺れる。音に合わせて、強弱に合わせて。
「随分ひけるようになったんだね。」
声が掛かるが、無視する。彼女は無視する。
「無茶苦茶だけど。」
「うるさい。」
口を開く。綺麗な声だ。
「ピアノがかわいそうだよ。そんなにぶつけてちゃ。」
「ピアノは何も言わない。私は私の音を出してるだけ。」
「傲慢だね。」
何も応えない。
最後のリピートだ。より強く、フォルテをはじく。
塔の、今の所の最上階。このグランドピアノが鳴く。ほぼ毎日。それも悲創のみ。悲しい歌しか歌えない黒い
鳥は、カラスだ。
最後の和音を終えると彼女は立ち上がった。
「なにかよう。」
「いや、とくにはないんだよ。」
うっとうしそうに彼女は彼を見る。
「セツ。」
彼は呼びかける。彼女の名前を。そして髪に触れる。
「また1つ、塔を崩したんだって?」
「昨日。」
「良かったの?」
頷く。
「問題はないから。」
「ふーん。」彼はそっけなくそういった。
「でも、セツの心の中は大分乱れてそうだね。」
「・・・そうかもね。」

「そうかもね。」繰り返す。
「ピアノをきいたらわかるよ。なんなのあの悲創。誰がきいても発狂するよ。」
髪をサラサラとなでて見る。彼は彼女の顔をのぞき見る。
「見て。」
指をさす。西をさす。
「あっちのほうだろ?あの塔があった場所は。」
「うん。でも遠いから見えない。」
「見えないから関係ない?」
黙る。
「いいよ、この世界はセツのものだ。セツが世界を作ると決めた瞬間から。」
ピアノの黒鍵を鳴らす。ベ、だ。
「セツ。でもここは空っぽの帝国だよ。君は満足?」
次はド。
「高い塀で世界を囲んでも、君が気を緩めたら侵入者は必ず現われる。無理なんだ。もとから完全な世
界を作るなんて。」
そしてソ。
「見て。」
ぐいっとその手を掴まれる。彼はマドまで彼女を連れて行く。
「君が中途半端に住む事を許した民が、今どうなってるか。見える?」
「見えないよ。塀の近くにしか彼らの塔はない。」
「そう、ここは中心部だから。いわゆる核だ。ねぇセツ。君はいつまで塀の構築と再構築をつづけるつ
もり?」
「普通の事だよ。だれだってやってることだ。」
「確かに。でも、頻繁すぎるよ。その構築に捲きこまれる民がうろたえてる。」
「・・・そうだね。」
知ってる。
「何回世界壊したら、気がすむんだろう。」

悲創は、時に泣きながら弾いていた。そのことは、僕は知ってた。


2,
僕は不思議な子を見つけた。少女とも少年とも言えない、綺麗な顔立ちのその子は細くて、ぐるぐると首
に不思議な色合いの布を巻き付けていた。アイボリーの袖のない薄生地のタンクトップ。腰よりも長いそ
れに皮の太いベルトをまいて、そこに短剣をさしている。ズボンは膝下までの、これまた薄生地のアイボリー。
なんといっても細かった。背は女なら高めだろう。男なら少し低いくらいだ。その子はいつも小さな石
橋から川の下流のほうを見ていた。遠くを見ていた。いつだって。
橋を通る時にちらりと見ただけで、なぜだかすごく印象を受けた。だけど僕はその時荷物を頭の上に乗せ
てせっせと走っていた。だから一言も声を掛けることはしなかった。いっても、初対面の人間にかるく声を掛
けられたとも思えないけど。
だけどその子はその次の日も同じ場所で、仁王立ちしていた。眼はいつもにらむようで、真剣だった。
   

サラサラ揺れる肩くらいまでの髪の毛がきれいだった。水面を跳ね回る白い光達がその子を少し輝かす。
でも僕はその時何も持ってなかったにもかかわらず、声を掛ける事は出来なかった。ただ横目で見つめてそ
して無言で通り過ぎた。背中が小さい。だがその身体はどこか筋肉のしまった強さがあった。そして今だ。
「何してるの?」
一瞬、その子はこちらを見た。その眼は大きくて無表情に近いが強い。色は濃い茶色。僕は息を呑んだ。ど
んな声で話すんだろう。そう思った。
「何も。」
その声はどこかでかすれていて、やっぱり中性的だった。優しい声だと思った。
「ここ三日、ずっとここで川を見てたの?」
「・・・川を。そうだね。そうかもしれない。」
首を傾げてしまった。なんて不思議な子なんだろう。
「名前は?」
「セツ。」
それだけ言う。名前を聞き返しては来ない。
「僕は、スピカ。」
「・・・星の名前だ。」
「知ってる?」
頷く。
「ねぇ。どこから来たの?」
「・・・西。」
「都のほうだ。」
そう、と言う。
「どこか、いく途中?ここらへんの人じゃ、ないよね。」
「ないね。」
「旅?」
「うん。」
笑わない。
「逃げてる。」
「逃げてる?」
思わず訊き返してしまう。
何も応えない。答えなんかくれない。その後何を話したかな。ちょっと話をした後、半分無理矢理に自分
の家へつれて帰った。だって、その子はとても悲しんでいるように見えた。折れてしまいそうな。
食事をして、寝るところを与えて、朝が来るのを待った。なんでここまでしてあげたのか、今でも本当に謎
だ。だって僕は、まったくもって貧乏だったし、食糧も一人分しかなかったから、余分に買うことになった。
「女の子、だよね?」
「なかなか失礼な質問するね。」
彼女は苦笑いした。僕はごめんと直ぐに謝った。
「いいよ、なれてる。私、すごく中世的なつくりだから。名前も含めて。」
「男だったらすっごくもてそうだ。とくにお金持ちのお嬢様達に。」
「あはは。」

彼女は此処ではじめて笑った。
「スピカは上流社会の育ちなのか?」
「や、ううん。なんていったらいいかな。」僕は困った。
説明なんか出来ない。簡単に指し示す事ができる言葉がないのだ。
「いいよ、説明が出来ないことなら、無理にしなくても。」
彼女は優しく微笑んだ。本当に男だったら、きっとこの笑顔すら悩殺ものだ。
「これから何処にいくの?」
「さぁ。」
彼女は顔を曇らせた。
「何処にいってもおなじだし、何処にいってもいい。ただ、戻らないならば。」
「・・・?逃げてる、っていってたね。」
「うん。」頷く。
「女の子、一人で危なくないの?この国だって物騒だよ。ほら、都だって。」
「知ってる。でもご存知の通り私はこのなりだからね。」
「男でも危ないよ。」
彼女は微笑んだ。
「でもいかなきゃ。とりあえずはラピス・ラズリを探してるんだ。」
「ラピス?」
「そう。あれがちょっと必要でね。」
頭の中に、あれ、とよばれるラピス・ラズリが思い浮かばなかった。


3,
「ラピス・ラズリはみつからないよ。セツ。」
「どうして。」
ピアノの手を止めた。
「空っぽの世界の住民には手に入れることのできないものだからさ。」
その言葉に彼女はむかついた。
「じゃあ、なにをここにいれろっていうの。」
左手の親指と小指がオクターブを抑えている。
「入ろうとしてくれた人間は五万といたと僕は思うよ。」
「人間?」
はっと彼女は笑う。
「そんなもの過去にいた?」
「いたじゃないか。わすれたのかい?」
聞く耳を持たなかった。無視してオクターブの音を鳴らす重く、強い。フォルテだ。           
_
「この世界の民は少なすぎるよ、セツ。」
「ごちゃごちゃしてるよりはいいでしょう。」
「僕はそれが悲しい。」
「悲しい?」繰り返す。
「どう悲しい。」

「この世界は極端だ。」
彼は言う。
「塔は日々太く、強く、そして真っ直ぐに空に伸びていってるよ。そして空から打ちつける雨にもまけない。
ゆっくりだけど、頑なすぎるほど硬く成長してる。構築されている。」
「それは私が望むから。」
「だけどそれと同時に、世界を囲む塀も塔を追うように高くなっている。ただ、伸びている。」
彼は眼を閉じる。そして彼女に触れる。
「そして、周りの小さな塔達はひどく貧弱だ。」
「そんなことない。」
「核はそうだね、少しずつ構築はすすんでいる。でも君は見えないと言った。」
「なにが。」
「住民達が住む塔の群れが。」
返す言葉がなくて、セツは黙って、認めた。
「塔が低すぎる。セツが、そこに根をおろすことも、大きく再構築を重ねる事も許さないからだ。」
眉間にしわを寄せる。グランドピアノに映る自分を見る。彼は彼女の肩に手を置いている。
「ねぇ、セツ。」
優しい声だ。
「僕はこの塔がいつか折れることを知ってるんだよ。」
世界の崩壊を告げる。優しい声だ。


4,
彼女は朝早くに眼を覚ます。
「ねぇ、本当に君もいくの?」
僕は頷いた。靴のかかとを鳴らす。彼女はため息をついた。
「迷惑だった?」
「・・・なれてないだけ。」
何にだろう。
僕は彼女の旅についていく。どうしてそう思ったかはわからない。だけど、都合が良かったと言えばそうだ。
僕は、この町をあと少しで去らなければならなかった。今日去ろうと明日去ろうと、何もかわらない。だった
ら、セツについて町を出発する事にした。つまり、僕も逃げる事にしたんだ。
「どっちにいこう。」
セツが言った。
「こっちは?森がある。きっと抜ければ村がある。」
「ふーん。」
セツはそれだけ言うと歩きだした。僕はその後を追う。
セツの事は結局何もわからない。何から逃げているのかも、ラピス・ラズリがなんなのかも。
だけど、彼女だって僕の何もしらない。だったらお互いに知らない同士。気にする事はない。
フェアだ。情報におけるフェア。
セツといると不思議に安心した。普段女の子と一緒にいる事がないから、もっと緊張してもいいんだけど。
きっとセツがひょうひょうとしてて、見た眼がそこまで娘っぽくないからだと思った。失礼ながら。

「ねぇセツ。言い忘れてた。」
「なに。」
「森を抜けるのはいいけど。森って結構物騒なんだ。」
「うん。」知っている、という風に頷く。
「盗賊がでるかもしれない。」
「うん。」動じない。
「セツは女の子だから・・・。」
「心配はいらない。」
言葉を切られる。
セツはにらむように、それが普通の表情であることは知っているけど、僕を見た。僕は黙る。
僕たちは歩きだした。しばしばかるいおしゃべりをした。

「私はスピカに似た子に、昔会った事がある気がする。」
「へぇ?」
いきなりのセツの切り出しに、ちょっと驚いた。
「古い口説き文句を使うね。」
「口説いてはないよね。」
笑った。
「何処で?」
「どこだったかな。」
遠い目をした。
「すごく小さいときだった気がする。」
どきっとした。小さい時?
「暗闇で光る、星だったと思う。」


5,
「これが学問の塔。そしてあれが異性の塔。ねぇセツ。君は恋愛をひどく軽蔑してない?」
「どうして。」
「ひどい形をしてるからだ。そしてひどくもろそうだ。まだ建設も始まってない。構築以前の問題だ。」
彼女は黙る。
「ねぇ、セツ。人を愛する事、とりわけ異性を愛する事って大切だと思うよ。」
「その、大切とやらの内約を聞きたいね。」
彼女はにらむように彼を見る。
「大切ならそれなりの理由があるはずだ。奇麗事じゃない、まやかしじゃない強い何かが。芯が必要だ。」
「芯。」
「人を愛する事で人は莫迦になる。おろかになる。」
「芯がないと?」
「あるっていうの?」
「自分を犠牲にして相手につくす。そして苦しんだり快楽を得たり。それは、他人と生きていく上で健康的な営
みだと思うけど。」

「私はそんな風にはいきたくない。」
言い切った。
「恋愛をする事で、磨く事をおろそかにするなんて、反吐が出る。そんなのは弱い人間が陥るものだ。裏切
ったり裏切られたり、そんな風にだれかとどろどろと深く関わるなんてまっぴらだ。」
「偏見だよ。」
「しってる。」
「だって君は本当は恋をしてみたいんだ。そういうんじゃない、という条件付の恋愛を。」
「・・・認める。」
「でもセツ。それは難しいよ。この塔をあと3年で完成させるのと同じ位に。でも不可能じゃない。」
「そう願いたいね。」
「でもその前にセツ。」
彼は真剣な面持ちで言う。
「君は他人に対するあの壁を少し低くするべきだよ。」
指をさす。あの塀。
「薄くするんじゃない。低くするんだよ。」


6,
「セツ。その短剣。ずっともってるの?」
僕は尋ねる。セツは頷く。
「重くない?」
「もってみる?」
頷いてそれを手に取る。それはズシっとしていて変な気分になった。
「私には必要なものだからね。」
セツは呟く。なにに、必要なのかは言ってくれなかった。
その晩僕らは森を抜け切れずに野宿になった。
「野宿でいいの?」
「それしかないだろうに。」
そうは言われても、女の子に野宿って、あんまりよくない気がしてならなかった。
「なんだ。スピカは怖いのか?屋根のない所で寝るのが。」
「違うよ。」
考えるのはやめた。

沈黙と火の燃える音。とはいえ、殆んどもう火はない。時々燃え尽きようとする枝がパキンと音をたてる。ほ
とんど完璧な暗がり。彼女は寝たのだろうか。
「スピカ。」
起きていた。
「私がやるから、寝ててくれ。」
「え?」
「間違っても起きないで。」
「?」

何のことかわからなったが、次の瞬間彼女の毛布が自分の頭に乗っかって息が出来なくなった。
少しもがいてそれを外す間に、鈍い音と小さな悲鳴と金属が競り合う音が聞こえた。僕は身体を固めた。暗闇に
鈍い光が反射する。セツの短剣だ。直感した。
ものの5分で沈黙が戻り、セツが僕の所にやってきて毛布を取った。
「・・・夜盗?」
セツは頷いたらしい。もっとも暗くてよく見えない。息を切らしてた。
「ありがとう。」
「いや。」
セツはもう一度地面に横になったらしい。僕の心臓はすごくどきどきしていた。
セツが何者なのか、考えたくなった。



7,
強い人間になりたいんだ。
芯のある、折れない人間になりたい。
真っ直ぐ自分の身体を通る一本の筋がほしい。
それは魂で、それこそが強さだ。
自分の事は自分で決めて、自分の道を自分で作る。
真っ直ぐうえだけ目指して伸びていくそんな人間になりたい。
妥協はしないし、諦めもしない。呑み込まれもしない。
自分のために生き、自分を高めるために頑張る。
そのために捨てる者がたとえ多くても。

私の目指す世界に、私はするんだ。



8,
「セツの考えは嫌いじゃないよ。」
彼は言う。
「だけど頑なすぎる。そしてそれを通そうとすると、綻びが出るものだ。完全じゃない。」
「完全は求めてない。」
「ウソだね。君は完全をもとめてる。完成を求めてる。もう自分を恥じたくないから。自分を恥じない人間にな
りたいからだ。」
彼をにらむ。
「現にみてよ。君が選んだ道の上で、君がした拒絶によって放棄された塔がたくさんあるじゃないか。異性の塔
がその代表だ。それからあの見えない塔達。民達だ。」
「・・・・・うるさいな。」
「その言葉だけは使っちゃいけないよ。君は耳を傾ける義務がある。僕の言葉に。君は気付いてるのかな。君は
民達を放棄した悪政をしく帝国の皇帝なんだよ。」
「住んでいる民には、信頼を置いている。口に出して私の民だと言える。」

彼は頷く。
「そうだね。そうだ。そして民たちも君の事を呼んでくれる。でも、君は彼らをいつも裏切っている。」
「どういう意味で。」
「だって、そうだろう。君はいつ切り捨ててもかまわないと思っている。だから彼らの塔をあんなに世界の端っ
こに追いやってるんだ。そして、何かあれば直ぐに塀の外に出してしまう。その準備は万端って訳だ。たいした
聖人だ。」
「聖人だとは思ってない。だって私はまだ未完成だ。」
「じゃあ、完成するのを待てって言うの?彼らに。それまでは君達をこちらの世界に寄せ付ける事は出来ませ
ん。ご了承くださいって声明でも出すつもり?」
「・・・。」
彼女は黙った。甲高い音の白鍵をおす。はりつめた音がする。ピアノ線がはじかれる。
「ラピス・ラズリは、君の近くにあるのに。」
「近く?」
「それは物理的ではなく。」
悲創をひき出した。最初の和音が、ひどいフォルテッシモだった。
「ねぇセツ、肩に血がついてるよ。君はまたあの短剣を握ったのか?」
無視した。


9,
結構ひどい有様ではあった。2、3人の男が倒れていた。血が出てた。意識を失っているだけだと願いたかっ
た。セツは黙々と支度をしていた。短剣はやっぱり腰におさめられている。グルグルと布をくびにまく。
「・・・いこう。」
僕は頷いた。
「体術を誰かに習っていた?」
セツは振り向いた。
「どうして?」
「強いから。」
セツは笑った。
「強くはないね。でも、自分の身を守るくらいの凶暴な力なら・・・持ってるかもね。」
「・・・凶暴・・・?」
「体術は・・・。・・・ナイトオリンピアで勝つために。」
「・・・ナイトオリンピア?」
耳を疑う。
「出たの?都の武術大会だろ。賞金が出る。」
セツは笑った。
「出たよ。幸運な事に私は男と間違われるからね。」
「・・・信じられない。」
「信じる信じないはそっちにまかすけど、この前の大会優勝者は私だ。」
コケかけた。

「でも多分このナイトオリンピアは、君が想像してるほうとは違うよ。」
「え?」
どう言う意味だろう。
「私の出たナイトオリンピアは、もっと規模の小さな・・・うん。非公認だ。」
それ以上その話はしなかった。
僕はますますセツの事が知りたくなった。その細い体に、なにをかくしているんだろう。一体何から逃げてい
ると言うのだろう。でも、隠しているのは僕も同じだ。それを問いただす権利など持ち合わせてはいない。僕
が僕をさらけ出さない限り。

森の半ばだったと思う。
僕らは何故か変なものを発見してしまった。
セツが声を上げた。
「ピアノだ。」
「ピアノ?」
「なんでこんな森の真ん中に。」
セツが不思議そうに言った。黒い大きな箱だ。僕は何度かみた事があったが、これがピアノという名前だとは
知らなかった。綺麗な音がする楽器のひとつだ。
セツがその箱を開いた。なかには白と黒の暗号のような模様が見られた。セツが指でその鍵盤をなぜる。
ポーン。という音がした。その瞬間僕の肌はあわ立った。なんて綺麗な音ではじくんだろう。セツの指に見と
れた。ほそい。華奢だ。どこからこんな音が出るんだろう。
「ひいてもいいのかな。」
「いいんじゃないかな。」
弾けるのか、と思った。

彼女が弾いた悲愴は、僕の知らない曲だった。永久の異世界の曲だと思った。
それを力強く弾く彼女のことを、セツの事を、知りたいと思った。


10,
「拒絶されるのが怖いから?」
「・・・認める。」
「だったら最初から入れないでやろうというの?」
「そうかもしれない。」
「そのくせ、人の世界には入りたがるんだね。」
十六分音符の連続。
「他人の世界での民としての君は、彼らからしたらどんなものなんだろうね。」
「客観なんて想像つかないな。」
「つくよ。」
彼は笑った
「家の壁をどんどん分厚くしてる。そして家に閉じこもってる。その扉を開けて外に飛び出すときの君はとて
も明るい。君はいつだって笑顔だ。だけど、それは人の前だけだ。家に帰るなり違う顔になる。だからそれは、

本当の顔じゃない。嘘の仮面を二つもつけたセツなんだよ。そうやって生活して、結局他人に触れているけれど
実際には触れてなんかいないんだ。」
「・・・たいした想像力だ。感服するよ。」
「どうも。でもこれは単なる想像。たしかに他人のことなんか分からないよ。そしてそれがセツに恐怖を与え
てるものなんだよ。」
「・・・それは。」
「他人にどう思われているか。本当はセツはこれが一番怖いんだ。」
ごくんとつばを飲み込んだ。
「でもね、自分のことは分かっておいたほうがいい。君は人が恋しい。君は本当は人に触れたいんだ。君はと
ても寂しがりやで、一人なんかでは本当は生きていけるタイプじゃない。」
「でも。」
「そう、君の臨む道は、多少なりとも一人じゃないとやりとげられない道なんだ。だからいうんだよセツ。君
はあの壁をどうにかすべきだ。でないと、この塔は折れる。」
予言を繰り返す。
「僕はセツの折れるところなんか、みたくない。」


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